2011年10月8日土曜日

iPodと超合金


スティーブ・ジョブズは、iPodやiPhoneなど自ら発想したプロダクツのデザインに一切の妥協を許さなかったといわれている。その執念は自らの声による「Think Different」のCMの中に集約されている。、自分が発想したプロダクツの形は、作る側、売る側でなく、常に使う側の視点に立っており、自分こそがそのプロダクツの最高の使い手である確信に根ざしていた。このことを、「Stay foolish」と何ら恥じることなく実践し続けたことに、彼のすごさがあったのだと私は思う。私を含め、体裁ばかり期にしがちな凡人にはなかなか真似のできることではない。

そんなジョブズ的な思想を貫いた人物に昨日、幸運にも話を聞く機会を得た。その人の名は村上克司氏。我々の世代なら誰もが一度は手にした「超合金」を世に送り出した人物である。

村上氏が「超合金」に託した思いは、まさに使う側の視点、すなわち、テレビで毎週見ているマジンガーZを、ブラウン管に映ったそのままの姿で手にとって、わがものにしたいというぼくら子供たち(当時)の視点を、おもちゃで再現することにあった。いい加減な造形のものを渡してごまかすような真似は絶対してはならない、子供だましなんて口が裂けても言ってはいけない。おもちゃと言えども子供たちに“本物”を提示することが、モノ作りに携わる人間の使命なんだと、村上氏は熱く語ってくれた。それはまるでジョブズの霊が乗り移って語りかけていたように、私には思えた。いや、年齢や実績からすればジョブズよりも村上氏の方が先駆者といえるのである。

ものを作ることとは何か、世の中を切り開くこととは何か。それは種類や国や年代を問わず、常に本物を追求することに他ならない。その作業が例え端から愚行に見えようとも、決して手を休めてはならない。我々の幸運は、こうした先駆者の志によって形作られた本物たちによって育てられたことだと、気付かされる一日だった。

なお村上氏のインタビューの詳細は、11月11日発売予定の「昭和40年男」12月号に掲載の予定。こうご期待。

2011年9月22日木曜日

半年で何も学べていなかった都心のサラリーマンたち


きょうもまた不謹慎承知の話を書く。いうまでもなく昨夜の台風のことだ。夕刻からごった返す都心のターミナル。豪雨の中何十キロの道のりを歩いた帰宅しようとするずぶ濡れのサラリーマンたち。まるで半年前のビデオテープを見ているかのよう。東京以外の人々はさぞせせら笑っていたことだろう。「こいつら何も学習してないじゃん」と。

3月の大地震の時と昨日の台風とでは違った点が一つある。事前から予測できたことだ。しかも予測ベタの気象庁にもかかわらず、今回の台風はご丁寧なまでに当初の見込みに従って都心に突進してきた。だが、その違いがほとんどの人々の行動に表れていなかったのは、予測を舐めていたか、予測の情報を把握すらしていなかったということだろう。

しかし、情報を把握していなかったとは言え、落ち着いて考えれば昨夜の顛末がいかにアホらしかったかと、帰宅難民の渦の中にいた人々は今ごろ痛切に感じているのではないか?そう「少し待てば何とかなったのに」と。

台風は夜9時前にはほぼピークを過ぎ、我が家のある浅草上空は風こそ強かったものの晴れた夜空が望めた。つまり、いつものように居酒屋でちょいといっぱいやっていれば、何事もなく帰宅の途につけたのである。まあ、多少の混雑はあっただろうが。

何かことが起きたとき、とっさの判断が命の分け目、とは先般の大震災の教訓ではあった。だが、落ち着いて見渡すことも学んでいたはずだ。地震が発生した日も、夜10時頃には地下鉄や私鉄は運転を再開していたのだから。待つべき時は待つ、動かざること山のごとし、古人はしっかりその言葉を伝えている。

なぜ昨夜ああなったのか、電鉄会社に責任を押しつけるのではなく、自分の行動、職場の状況をまず見渡して今一度分析見ることが本当の反省だろう。

2011年9月21日水曜日

なぜかわくわくする台風襲来


きょうは敢えて不謹慎なことを書く。ご不快と思われる方はご容赦を。何の話かって、今迫りつつある台風の話である。被害に遭われている方々にはお見舞いを申し上げるほかないが、台風がやってくるとなぜかわくわくしてしまう心理が働いてしまうのである。いわゆる怖いもの見たさなのだろう。

東京に住んでいる身としては、このわくわく感が裏切られることが実に多い。“観測史上最強”“超大型”“うん百万人に影響”などと気象庁の予報やニュースの見出しが出てケースに限って、いざ台風がやってくるとどういうわけか直撃を避けて海にそれてしまったり、実はほとんど雨が降らなかったりなどというのがほとんどだったりするのだ。本当にやばいと感じさせる台風の襲来なんて、5年に1度がいいところだろう。であるからこそちゃんと来襲する台風は貴重というかレアというか、そんなのだからわくわくするのかも知れない。

これはすごかった台風というので思い出すのは昭和54年にやってきた台風20号だ。ちょうど今の時期だったと記憶している。朝から強い雨が降る中、中学へ登校したのだが、3時間目が終わったところで担任教師から「今日は給食が出せないので今から帰れ」といわれた。早く終わってくれるのは嬉しいのだが、当然外は集中豪雨。氾濫する川などはない地域だが、大雨の中で帰宅を強制するって、何を考えているのか。中学から自宅まではおよそ2キロ。登校時に乗ってきた自転車は学校に置いたまま、歩いて帰ることになったのだが、強風でぶっ壊れた傘の骨が道ばたのあっちこっちに転がり、強風でなかなか前に進めない。結局家に到着するまでに1時間かかったと思うが、当然着ていた制服はぐしょぐしょ。しかも家にたどり着いた頃には雨はかなり弱まっていた。もう少し学校も落ち着いて先を読めよと思ったものだ。

きょうやってくるとされる台風15号は、この32年前の20号とコースといいタイミングといいとてもよく似ている。はたして私の期待に応えてくれるだろうか。

2011年9月16日金曜日

「電子書籍元年」の続きはどうなった?


シャープが昨日、電子書籍端末GALAPAGOSの販売を9月いっぱいで終了すると発表した。発表によると、GALAPAGOS向けにやって来た書籍・コンテンツ配信は各携帯キャリア経由で出しているGALAPAGOS携帯にて継続するとしていて、あくまでシャープ独自で展開しているWi-Fi対応機をやめるだけという言い方をしている。

シャープの独自端末は原則ネットを通した販売オンリーで、ヨドバシカメラなど一部の店舗で購入を取り次いできたものの、月に数台売れればいい方だったとかで、明らかに販売方法を読み誤った結果と言えそうだ。いや、この方法は私に言わせれば「ハナから売る気がなかった」としか映らない。シャープが「ここで買えますよ」と客を誘導した形跡がほとんど見受けられなかったのだから。アップルが成功したのだからうちも、と言う思いがあったのだろうか。

いずれにせよ、シャープが電子書籍事業でつまずいた、そのことを業界に知らしめたニュースと言うしかないだろう。あるいはこれを“朗報”と捉えた同業者もいる気がしてならない。ライバルが1つ消えた、というよりは「うちもこれで撤退しやすくなる」と思ったのではないか?

iPadが日本で発売されてから1年4カ月。「すわ電子書籍元年だ」と騒いだのがウソのように、最近の電子書籍を取り巻く動きは穏やかだ。業界内の連合、企画サークル作りの動きなどはたびたび伝わってくるが、具体的にこういうサービスが始まる、わーすげー!、なんて話は一切ない。だが、出版界における危機感だけはじわりじわりと広がっている。

おそらく向こう3年は、試行錯誤が突くのだろうと思う。規格・端末の乱立が電子書籍業界立ち上げにとってマイナスであることは関係者誰もが解っているはずで、どの方向にまとめていくかを模索しつつ、覇権を競って行くことだろう。だがその中での本命が見えてこないところが気になるところ。また、取次業者を中心とした出版界の古い体質がそのまま電子書籍の世界に移行しようとの動きがあるのもネガティブな要素だ。

そんな中で出てきたシャープの動き。下手なターニングポイントにだけは、なって欲しくないものだ。

2011年9月12日月曜日

この10年で学んだこと これから日本人が生かすべきこと


2001年9月11日夜、その時間私は通信社のデスクでネットのニュース配信の編集をしていた。そこへ飛び込んできたのは「ニューヨーク貿易センタービルで爆発。航空機が激突した模様」と言う一方。最初浮かんだのは「ユナボマーの話?まだ蒸し返してるの?」てなもんで、ショッキングというのではぜんぜんなかった。すると間髪入れずに、デスク横のテレビに、よく解らない光景が映し出された。晴天のニューヨーク、煙が上がる高層ビル。そこへ、旅客機が1機やたら低空飛行で近づいてきた。後ろを通り過ぎるのかと思ったらそのままビルに衝突。

「え?」っと驚くとほぼ同時に「これは故意だな」と冷静に似られている自分がいた。だが一方でその状況が何で起きているのか、にわかに把握できなかった。そうこうしている間に2機目の飛行機がビルに突っ込んだと言う情報が入ってきた。「え?2機?なななにそれ?」。さらに少したって、今度はペンタゴンに飛行機が落っこちたと言う情報が。もはや何が何やら。

以上がちょうど10年前の日本時間夜10時から11時半頃にかけての自分が体験したいわゆる「911」の流れだった。そのあと、次から次へと入ってきた記事の対応に追われ、とりあえずその日の業務から解放されたのは朝の4時だったか。

その時、大惨事が起きたという認識はあった。これは事件などではなく新世紀スタイルの戦争なのかも、と言うことも直感で覚えた。でも、後にアメリカ人たちが言うほどに「大きな傷」と言う感覚は私には感じられなかった。彼らの中には、日本の原爆投下に匹敵するようなショックと表現するものもいたが、レベルが違うと思った。原爆の被害者の数を彼らは分かってないのだろう。しかも原爆では60年以上過ぎた今でも後遺症に苦しんでいる人がいる。それと911ごときを比べないで欲しい、正直そう思った。そういう反応を見たせいか、「911」を誇張していないかと言う思いが私個人には今もある。

だが、今年、大震災を経験して、さらに原発事故を目の当たりにして、10年前にアメリカ人が味わったインプレッションを少し理解できたように思える。人間はある一定以上(それがどれくらいからかは分からないが)強烈な惨劇を体験することで、冷静さや理性は砂上の楼閣が如く崩れ去るのだと。余裕がなくなるのだ。

人間、余裕がなくなると、相手を思いやる気持ちがもてなくなる。異なった意見を理解する機能が失われる。自分の信じたこと以外信用できなくなる。そして攻撃的になる。

911の時、ブッシュ政権(当時)はすかさず中東へ戦争を仕掛け、アメリカ国民はこぞってこれを支持した。「報復は倍返し」を大多数が後押しした。そしてアメリカ国内に住む中東計の人々にまでその攻撃の手は及んだ。そんな国民感情の奥底には、911の体験が「世界で一番悲惨な体験をしたアメリカ国民」というゆがんだ感情が生じていたのではないだろうか。

一方、今、震災後の日本では反原発、脱原発論が渦巻いている。確かに原発のリスクは大きい。そのことを我々は思い知った。だが、3月11日以前までは間違いなく和れっわれは原発の恩恵を受けてきた。その過去をないがしろにした反原発論に私は奇妙さを覚える。だが、そうした違和感を語ろうとするとたちまち攻撃的な言葉が飛んでくる。ネット上での反応は特に敏感だ。これも、自分が信じ込んだこと以外は一切認めようとしない、寛容さを失った人間の感情がなせる技ではないかと思う。

いま、アメリカでは政権が代わり、10年前の事件に端を発するナショナリズムの変化を反省する意見が聞かれるようになった。それは一つの時の魔法の効果と言えるだろう。東日本大震災からはまだたかだか半年。高ぶったままの国民感情の中で早まった判断だけは避けたい。それが911から10年で学んだ教訓ではないだろうか。

2011年9月11日日曜日

担当記者なら大臣のうっかり発言はその場で注意してやれよ


発足から10日足らずの野田内閣だが、早くも脱落者が出た。鉢呂経産相が舌禍の責任を取っての辞職、「またか」という思いだ。こんなことばかりやっていていいのかと。

政治家とは元来、人に話すのが仕事だ。多くの言葉を使う間に、うっかり名言葉を使ってしまうことも当然ある。記者が原稿を書き間違えるのと同じレベルの話だ。政治家のうっかり発言をいちいち取り上げて責任どうこうを振りかざす記者は、原稿を書き損じたことがないのだろうか。

鉢呂氏が口にした“舌禍”と言われる発言は2点。福島第1原発周辺を「死の街」と言ったことと、記者を囲んだうちわの懇談で「放射能が付いたぞ」(正確な言葉は不明)などと悪ふざけっぽくじゃれた件。

まず、「死の街」のどこが問題なのか、全く解せない。文字通り人っ子一人いなくなった街を、ゴーストタウンと言ってなぜいけないか?じゃあ、地方都市の「シャッター通り」よろしく「シャッターの街」ならOKだったのか?大臣が率直な感想を述べてことをなぜ記者たちは問題視するのか?その場にいた記者全員にアンケートしてみたいところだ。

もう一つ、これが致命的と言われる「放射能が付いたぞ」発言。やりとりを聞くに、子供のエンガチョ遊びだ。これをうちわの記者たちの前でしゃべったのだとか。きっと記者の中には「カギ飲んだ」と応じたヤツがいたに違いない。私だったらダブルエンガチョで対抗するが。

確かにこれは「死の街」と違い、不謹慎と言わざるを得ない。でも、ちょっと待て。大臣の前にいたのは記者ばかりなら、一人くらい「大臣、その言い方はまずいですよ」といなしたヤツがいてもいいのではないか。その一言さえあれば、大臣の首は繋がっていたのではなかったか?もしかしてこれって、記者連中による大臣いじめ?記者連中にとって鉢呂氏こそがエンガチョだったのか?

こんなことばかり繰り返して、ころころ大臣の首をすげ替えてばかりいるから、日本の政治から“使える人材”がいなくなるのだ。大臣だって人間、政治家だって人間。いくら選挙で民から選ばれた人間とは言っても、ノーミスノーリスクの完璧人間なんていない。うっかり発言があったらそれを浄化する方法は常識レベルでいくらでもある。何より、そんな些末なことなど構っていられない問題が、この国には山積していることは国民の誰もが知っている。新聞記者連中も自分の手柄ばかり追わず、もっと大局眼と懐の深さを養うべきだ。

2011年9月10日土曜日

本日発売「昭和40年男」最新号は「オレたちの宇宙」!

デジタルネイティブとかソーシャルネイティブとか、生まれながらにして最先端のカルチャーに囲まれ育った世代をそれ以前の人間と分かる言葉が流行っているが、それを言うなら我々昭和40年前後生まれの人間は差し詰め、テレビジョン・ネイティブ、そしてスペース・ネイティブと呼ばれて然るべきかも知れない。テレビと宇宙。どちらも戦後から高度成長期に我々日本人が夢を投影した媒体といっていいだろう。その夢を映像として日常的に目にしながら育った我々にとって、宇宙とは何か。そんな思いを込めた『昭和40年男』10月号が本日発売の運びとなった。通常なら奇数月の11日発売だが、明日は日曜日と言うことで1日早いリリースとなっているのでご注意を(早く買わないと売り切れちゃうからね)。

今回私が書いたのは米ソ競争から始まる宇宙開発の歴史と、我々の宇宙観を育てたSF作品の名作解説。正直、もう少し突っ込みたい部分もあったのだが、それでも十分満足行く内容になったと自負している。中には「これって40年男世代?」と思われる作品も取り上げているが、何せSFというのは他の分野以上に人を選ぶところがある。見ているヤツは徹底的に見てきたし、そうでない人は本当に舐める程度、ヤマトのヤの字くらいしか分からんということも少なくない。なかなか難しいところだが、興味を持っている方々に向けて答えた方がより内容の厚いものになると、少しマニアックなものも加えた(だってSFオタクにとって「トップをねらえ!」を外すわけにはいかないもんね)。

手前みそだけでなく、はやぶさプロジェクトがこれほど40年男とのかかわりが強かったことを改めて知らされたり、宇宙の研究はどこまで進んでいるかが我々世代ならではの切り口で解説していたりと、今巷にあふれている宇宙関連本とはひと味もふた味も違う内容になっている。

ほかにも、新婚ほやほやのカトちゃんへのインタビューなど旬な和題ともリンクしているなど、ただ懐かしいだけの昭和雑誌ではないツボもしっかり押さえられている。常連さんはもちろん、「え?オレ40年男じゃぜんぜんないよ」という人でもまずは書店で手にとって頂きたい。もちろん、電子版も同時リリースされているので、iPadやタブレットPCを常時お使いの方はそちらをご利用になることをオススメする。

電子版はこちらへ↓
http://www.zasshi-online.com/Magazine/ProductDetail/SalesDate?code=2011-09-10&page=1&dcode=tandem_style_40s8110910&dpage=1

2011年9月4日日曜日

黒い鳥人、ゴーカイに甦る


番組も折り返しに差しかかった「海賊戦隊ゴーカイジャー」、ここに来て一段と脂がのってきた感じだ。予定の映画2本も充実した内容の中で消化し、演じている若い役者も演出も脚本も、ノリノリの様子が映像から伝わってきている。そしてそのいいリズムに引き寄せられたのか、番組の売りである過去戦隊からのゲスト戦士も我々長年のファンの期待に見事に応えてくれている。本日(9月4日)放送の回はその頂点と言えた(このあとも期待は高まるが)。

きょうの放送は鳥人戦隊ジェットマンの大いなる力をゴーカイジャーたちが手に入れるというお話。

このジェットマン、1991年放送の、戦隊シリーズ15作目に当たる作品だ。戦隊ものの主要対象年齢は5歳から10歳といったところだが、このジェットマンはいささか事情が異なる。90年代初頭といえば、バブルの絶頂期。テレビ界ではハイソへのあこがれを絵に描いたトレンディドラマが全盛だった。その流行りを戦隊ものも取り入れたというわけだ。というのも、10作を超えた戦隊ものもこの頃、マンネリ化が顕著となり、シリーズ終了も検討されたといわれている。ならば思いきったものをと企画されたのがジェットマンだった。対象年齢を少し上げ、ヒーロー物では禁じ手とされていたメンバー間の恋愛模様を真正面から採り入れたジェットマンは、まさに戦隊シリーズの曲がり角となった。

だがこのジェットマンには、シリーズ切っての問題児でもあった。最終回、最後の最後のシーンでメンバーの一人、ブラックコンドルこと結城凱が暴漢に刺されて死んでしまうのである。敵の怪人とかではなく、ただのその辺のチンピラにである。子供番組かよ。

この一件が実は、今年のゴーカイジャーを企画する際、最大のネックになったそうだ。一人死んでいるヤツがいるんじゃ過去の戦隊全員集合は成立しないじゃないか、と。結局あとで折り合いを付ければいいという判断になったのだろうが、その折り合いを付けなければならない回がここにめぐってきたというわけだ。そこでスタッフが白羽の矢を当てたのが、当時の脚本を書いた井上敏樹氏だった。平成ライダーシリーズなどで数々の問題作を繰りだしてきた井上氏は、自らのペンで手を下した結城凱を弔うかのような脚本をぶつけてきた。

で、今回のゲスト戦隊戦士は結城凱・若松俊秀の登場となった。あれから20年、当時ええかっこしいだった凱は真にカッコイイ大人となって帰ってきた。

でも、なぜ死んだはずの凱がゴーカイジャーたちの前に現れたのか。と考えながら見ていると、ゴーカイジャー唯一の地球人で戦隊オタクのゴーカイシルバーだけ、凱の姿が見えない。見えないどころかその存在すら認識できない。はてさてその理由は…。そして凱がゴーカイジャーたちの前に現れた理由は?ほかのジェットマンたちは?もう小憎らしいばかりの演出が次から次へと画面に現れる。もう、長らく戦隊ファンやって来て本当によかった。そう我らに思わせる、井上敏樹らしからぬファンサービス満点の25分だった(ネタバレ防止のため詳細は自重)。

今月はこのあと「爆竜戦隊アバレンジャー」「超獣戦隊ライブマン」「超力戦隊オーレンジャー」のエピソードが続くとのこと。楽しみすぎる秋の日曜日だ。


2011年9月2日金曜日

大河ファンを置き去りにした「江」ができなかった事


来年の大河ドラマが楽しみと先日のブログで書いたが、その前に今年の大河「江~姫たちの戦国」について語っておかざるを得ないだろう。

いまさら、といってはなんだが、「江」は残念な事が多すぎた。まだ終わってはいないが、現在の物語のペースを考えても、もっと面白くする方法があったはずなのにというのが歴史好きや昔からの大河ファンの言い分ではないかと思う。それでも視聴率がそこそことれている(ここ数回は下がっているようだが)というのが、このドラマの扱いを複雑にさせている。

「江」の脚本は田渕久美子氏。知っての通り2008年、社会現象を起こしたの大河「篤姫」も担当した人だ。視聴率も近年では最高レベルをマークし幅広い層から支持を得た。その実績を踏まえ、二匹目のドジョウを狙ったのが「江」だった。ここまでの流れは特に間違っていなかったと思う。

だが、NHKサイドは今回この実績の肝心なところを読み違えたという気がしてならない。「篤姫」のヒットでよく言われたのは、本来大河ドラマを見なかった層が見て楽しめる内容だったという指摘だ。大河としては少し違和感のあるBGMをふんだんに取り入れたり、史実を踏まえつつも大胆な解釈で既成概念を崩したスタイルは、オールドファンからの批判は少なくなかったものの、イマドキの時代劇はこれでもOKというスタンスは今のドラマ視聴者の主流とマッチした。

問題は、NHKがこうした指摘を踏まえて「オールドファンはさておき」とする方法に味を占めてしまった節があるのである。その流れは「篤姫」に続く「天地人」においても垣間見られていた。案の定「天地人」は名子役の発掘以外さしたる実績も残せず、多くの大河ファンから悪評を浴びた。「オールドファンはさておき」に媚びた結果生まれたのは、主人公を本来出会うはずのない当代の著名人と無理矢理にも鉢合わせようとする“ミーハー脚本”だった。まだ少年のはずの直江兼続を織田信長と会話させたり、軍議の場にたかが小娘の江がひょこひょこ首を突っ込んだりする。視聴者以前に脚本家自身がそうやって遊んでみたくて仕方がない、ミーハー精神が表に出てしまっているのである。そういうのは「信長の野望」や「戦国BASARA」に任せておけばいいのに。

この手のトンデモ歴史的展開が頻発するのは、脚本家のミーハー化と同時にアイデアの貧困さを露呈していることに、脚本家本人は気付くべきである。

江にしても直江兼続にしても歴史の本流からすれば脇役である。ゆえに、信長や秀吉、あるいは義経、龍馬など王道を歩いた人物とは違い行動範囲の制約があるはずである。地方大名の家老がひょこひょこ中央政治に首を突っ込むのはおかしいのである。そういうのを押さえてこそ、ここぞという場面での中央とのかかわりがより面白くクローズアップされるはずなのである。一方で、地方大名の話ならその人物でしかあり得ないエピソードが人生の時間の分だけあるはずで、それを掘り起こして話を広げるだけでドラマの個性は十分出せる。その行為を怠ってしまっているために、何かと言うと信長だの秀吉だのと飛び道具に頼った陳腐な話にとどまってしまうのである。

今も名作と語り継がれている「独眼竜政宗」(1987年)は、この主人公でなければ描けない独自エピソードをたんまり盛り込んだ事が作品に厚みを持たせたのである。また、まさにここという場面で政宗と秀吉が対面するという演出も、それまで引っ張りに引っ張って両者を遠ざけていた巧妙な筋書きが仕組まれていてこそ生きたのである。この撮影をした当時、政宗演じる20代の渡辺謙は秀吉演じる大俳優・勝新太郎とそのシーンに入るまで一切顔を合わせなかったという。このような役者の行動は、ミーハー脚本では絶対に生まれる事はない。

江は歴史の脇役と書いたが、それでも彼女は本流を行く人物の多くと様々な形でリンクしているのは確かだ。それゆえミーハーになられてしまうリスクをはらんでいるのだが、だからこそ、主人公の腰をじっくり据えさせ、ブレのない物語を描いて欲しかった。多少のミーハーは許してもいいが、それがメインディッシュになってはまずいのだ。

あるいは脚本家は、江を戦国時代のナビゲーター、もしくはタイムスクープハンターのようなインタビュアーに仕立てようと考えたのかも知れない。だが江はその時代を生きたれっきとした実在の人物である。その人格をもっと正面から見つめ、彼女の生きた道をより深く掘り下げる物語を描いて欲しかった。それができてこそ名脚本家なのだ。

2011年8月31日水曜日

セシウムさん事件とひらひらのカーテン


今月4日に起きたいわゆる「セシウムさん」事件について、東海テレビはこのほど事態の経過を検証した番組を放送し、ネット上にも公表した。合わせて関係者の処分も発表した。問題の放送の動画と、今回明らかにされた局内のやりとりを見て、メデイアに携わる人間の一人としていろいろ考えた。
http://news.nicovideo.jp/watch/nw107117

このところ、Twitterが広く浸透した一方で多数の“事故”が発生している。いわば“ソーシャル失言”が招く炎上事件だ。某俳優のいわゆる韓流番組ごり押し批判発言などは典型だが、芸能人やメディア関係者だけでなく、一般人の発言が大事につながるケースも少なくない。それは、自動車が出回ったばかりの頃に交通事故が相次いだというのに似たものだと、私は捉えている。ソーシャルメディアも、こうした事故を経験する事で、何をしてはいけないのかという学習を重ねて、あるべき方向にまとまっていくのだろうと楽観視しているところだ。

例の「セシウムさん」テロップを作ってしまった担当者の心理も、このソーシャル失言をおかしてしまう人間に近い心理があったのだろうと思う。そして両者に共通しているのは、メディア制作の内側と、視聴者もしくはフォロアーにさらされる場を隔てる仕切りが、カーテン1枚ほどの厚みしかない事を忘れてしまっていたという事ではないかと思う。

私がいた(今もいるが)記事を書いて世の読者に読んでもらう仕事では、原稿が私の手元を離れてから読者の前に置かれるまでにいくつものフィルターを通される事になる。報道機関の例でいうと、所属部のデスクの目を通り、赤筆(校正担当)の目を通り、もう一度別のデスクの目でチェックされてる。さらに整理部のチェックを経て紙面に掲載される。その間に文章の整理や語句の訂正が施されていく。もちろん最初の執筆者でないと事実関係の正否が分からないことは多く、これらのフィルターでも見抜けないエラーはある。だが、どの部署もいるのは社会人の大人であり、セシウムさん的なバカな文言がそのまま外に出る事はまずない。

だが、このフィルターがどんどん薄くなっている事態が、悲しいかなメディア業界全般において起こっている。中間チェック部署は生産性が低いと判断されているのか、人員はどんどん縮小されている。またワープロの普及に伴って感じの誤植が多くなっている事もあって、非常識な誤字テロップが堂々と画面に登場したり、新聞の見出しに現れる事が多くなっている。いわば、観衆から見られては恥ずかしい楽屋とステージの間仕切りが、板の壁からちらちらとのぞき見られるカーテンくらいの薄さになってきているのである。セシウムさんテロップがスイッチャーのうっかりミスで画面に映ってしまったのは、まさにカーテンがちらっとめくれた瞬間だったのである。

そういう、カーテンがめくり上がる危険性は放送を送る現場にいる人間なら常に頭に入れておかなければならないイロハのイ。まして人員が少ない地方キー局の現場で、間違い防止フィルターが薄い事は誰もが身にしみて分かっていたはず。おそらく、例のテロップを作った担当者は、その意識が飛んでいたのだろう。人員の手薄も、慣れてしまえば感覚は麻痺してしまうもの。そうした悪しき条件が重なって、不意にめくれたカーテンの向こうに、放送局全体を危険にさらす放射性物質のようなものが露わにされてしまったというのが、事件の真相だろう。

こうして考えてみれば、くだんのトラブルがどのテレビ局、どのメディアにおいても起こるリスクを秘めていることがお分かりいただけると思う。その意味で私も含め、大いに考えなければならない一件と言えた。

さらにいえば、これはメディア業界に限定される問題ではない。先に指摘した通り、ソーシャルメディアが普及し、誰もが社会に向けて考えを述べられる状況が生まれた事で、ひらひらのカーテンはすべての人間の生活の中で意識されなければならなくなっているのである。以前なら居酒屋での酔っ払いの戯言で済まされた与太話も、それをそのまま字にして不特定多数の眼前に曝せば、めぐりめぐって戯れ言の中の人間に届き、強烈なしっぺ返しに見舞われることを知っておく必要がある。それは新たな文明の利器を得た人類に与えられた大きな代償と心得ておくべきだろう。

2011年8月30日火曜日

人はなぜギリギリにならないとがんばれないのか(夏休み編)


8月もあと残り2日。最近の脱ゆとりの中の小学生はどう過ごしているのか分からないが、この2日間は街から子供の姿が消えるというのが昭和の風景だった。いうまでもなく宿題の追い込みである。

昨日も仲間内で話題になったのだが、人はなぜ、例え40日もの余裕を与えられても最後のギリギリにならないとエンジンがかからないのだろう。昨日話していた一人が指摘したのだが、宿題をいっぺんに出すからこうなるのであって、例えば1週間ごとに区切って分割して出していけば、子供とてコンスタントに消化することができるんだ、というのである。実際そういう研究結果もあるのだとか。まあぶっちゃけ、普段の宿題というのはそういうパターンで出されるわけで、それを夏休み中も続ければいいだけのこと、ということになるか。

だが、それでは夏休みだからこその宿題の意味はなくなってしまうとも言える。言い換えれば、学校の先生が楽できなくなるではないか、ということでもある。40日の夏休みにまとめて宿題を出すということは、子供たちの計画性が試されているというのが隠れた狙いなんだろうから、やはり分割方式はやり方としてずれている、というべきかも知れない。

などと曰っている現在、自分も目の前に迫った次号の締め切りに向け大詰めの状況だったりする。子供の頃の故事に習って、もうひと頑張りしなければと自戒するものである。

2011年8月28日日曜日

隅田川花火大会、超穴場はわが頭上にあった


震災のあおりで例年より1カ月遅れの開催となった、わが浅草が誇る真夏の夜の祭典・隅田川花火大会。天候が心配された中だったが、2万発の閃光が夏の終わりを告げるかのように浅草の夜空をてらした。

すぐ近所とはいえ、締め切りが押し迫る中でひょこひょこ雑踏の中に出かけるわけにも行かず、自宅の窓から観覧と思ったが音はすれども光は見えず。そこで12階建ての自宅マンションの屋上から見ることにした。

だが、この屋上こそ超穴場。浅草のメイン会場も両国に近い第2会場の花火もバッチリ眺めることが可能。しかもその間には東京スカイツリーがデンと構えている。さらには隅田がは北方、千住界隈でも花火大会があったようで、これもしっかり視界に捉えられるという贅沢この上ないビューポイントだったのだ。灯台もと暗しならぬ、自宅の真上明るしといったところだ。

屋上にはマンションにお住まいの方々が家族連れでござを敷いていたが、さほどひしめいている感じはなくわりと静かにゆったり見ることができた。1つ難を言えば風が強めで涼しすぎるのと、花火の煙がもろに古かかってきたことだ。いや、煙が香るほどの花火大会なんて、それはそれで粋じゃねえかと。

来年はまた7月下旬の開催に戻るだろうから、締め切りに負われず見ることができるかな。その頃にはスカイツリーも煌々と明かりがともっているはず。11カ月後が楽しみだ。


2011年8月26日金曜日

ビニール傘もゲリラ雨対策を


世に言うゲリラ豪雨がこのところ頻発している。先ほども昼飯を食っている最中にすさまじい降りに会い、店の中で立ち往生を余儀なくされてしまった。何とか向かいのローソンに飛び込んで、ビニール傘を調達して帰宅したところだ。

だが、500円で買ったビニール傘もゲリラ豪雨の中では気休め以上の何ものでもなく、結局膝から下はびしょびしょ。背中もショルダーのカバンも悲惨なことになってしまった。

そこでふと思ったのだが、コンビニ売りのビニール傘、もっとでかいものにするべきではないだろうか。

一般的に、雨が降ると店におかれるのは長さ65センチ程度のジャンプ傘と、片手で開く折りたたみ傘の2種類というのがほとんど。きょうのようなゲリラ雨ではほとんど役に立たない。いわんや折りたたみなどカネのみだというものだ。だが、とっさに必要になるときに降っている雨はきょうのように強烈なケースがほとんど。弱い降りならわざわざ傘は買わない。

ならば、ゲリラ豪雨対策として売り出す傘なら、半径80センチくらいの大きいかさの方が有効なはずだ。あるいはカバンも含めて身体全体をガバッと包むような簡単なカッパ(衣服然としている必要はない)なども有りなのではなかろうか。

多発するゲリラ雨だが、新商品のヒントはそこかしこに隠れている気がするのである。

2011年8月25日木曜日

夏よ、もっと気合い入れろよ


どうも今年の夏はやる気が感じられない。去年はあれほどすごい夏だったのに。節電がノルマとなっている元ではなるほど、好都合かも知れないが、夏はちゃんと暑くなければ夏じゃないのである。

8月前半は確かに暑かった。それはいい。でもそれはあくまで普通の状態。そこへ行くと今週や7月末のていたらくは何だ?せっかく夏なのに、無駄な時間を費やしやがって。

9月は多少暑いなんて予報が出ていたが気象庁のいうことなど千三つもいいところであり、もはや信用する材料は欠片もない。

また台風が近づいているようだし、天気図を見る限りしばらく夏っぽさは期待できそうにない。などといってる間に8月はもう5日しか残ってない。どうしてくれるんだこの野郎。

って、誰に怒っても詮無いことだが、せめて9月の彼岸までにはもうちょっと夏らしさを発揮して欲しいものだ。

そんな中で明後日は、異例ではあるが夏の残り香のように隅田川花火大会が開催される。小雨なら決行するようだが、雲行きが非常に気にかかる。

2011年8月24日水曜日

紳助が何をしたというのか


昨日の島田紳助芸能界から引退というニュースは少しビックリした。だが反面、世間が騒ぐほどのインパクトは受けなかった。一つは、最近紳助が出ているバラエティ番組を全く見ていなかったことがあると思う。もう一つは、かつて上岡龍太郎があっさり芸能界から足を洗った件が頭に浮かんで、それに続くだけのことなのか、と思えたことがある。

とはいえ、かつて漫才ブームの頃の紳助竜介の芸風は好きだったし、「サンデープロジェクト」のキャスターなどでタレント生を発揮していた姿は非常に好感を持っていた。政治家になるならないかはともかく、たけしやさんまとは一線を画した知的さを帯びたキャラクターは先行きに期待を持っていたこともある。それが醒めたのは例の暴力沙汰があった頃からだろうか。だが、失礼だがそう多くな損失、という感じも個人的にはない。

そんな紳助の引退表明だが、個人的には違和感を持った。特にニュースでのおきまりなセリフには強い反感をおぼえた。それは、相撲と比較するくだりである。大相撲が裏社会とつながっていた問題で大きかったのは、そのことが取り組みそのものにインチキが及んでいた点だった。

これを紳助の芸能活動に照らし合わせた場合、特に彼と付き合いがあったとされる人物が番組制作に介入するとか、視聴率を不当につり上げるとか、ギャラに関して口を挟むといったことは特に明らかになっていない(今後そんな話が出てくるかは判らないが)。少なくともこの会見があるなしにかかわらず、彼が出ていた番組の視聴者の信頼を損なう行為は一切認められていない。モラルに関して指摘する声は確かにあるが、紳助本人がモラルに這うする行為を視聴者の前でやったという事実はない。

彼の言葉によれば、自分が苦境に陥ったときに(右翼団体からの嫌がらせのようだが)丸く収めてもらったという、その手段がまずかったということだが、本人がかかる関係をコントロールしている限りにおいて、紳助の落ち度は認められないのである。いってみれば島田紳助は犠牲者と言っていいと思う。芸能界の不条理さにおいての犠牲者という意味である。

芸能界と裏社会のつながりは、長い長い歴史がある。さかのぼれば江戸時代の歌舞伎の初期あたりからということになるのだろうか。そんなことは日本の常識だ。テレビを見ている誰もが知っている。その関係を断ち切る努力は大いに必要ではあるが、簡単に断ち切れないこともまた誰もが解っている。それが解っているというのに、一つ関係が表に出た人物を腐ったミカンのようにつまみ出す。これが奇妙なことであることはテレビ業界を含め誰もが解っているはずだ。彼が出演していた番組のスタッフや共演者は視聴者以上に悔しくて仕方がないはずだ。いや、もちろん一番悔しがっているのは紳助本人だろうが。

一度引退を口にしてしまった以上、簡単に元の鞘に収まることはないだろう。だが、タレント・島田紳助は昨日付で死んだとしても、豊富なタレントを持った現在55歳の長谷川公彦という人物は生き続ける。この逸材をそのまま放置しておくほど世間に余裕はない。吉本興業との間でどのような誓約書が交わされたかは分からないが、いずれ何らかの形で彼が日本に影響を与える活動を再開することは間違いないだろう。その時の彼の言葉をに期待したい。それまではどうぞゆっくり休んで、シャバの空気を味わって頂きたい。


2011年8月23日火曜日

昭和40年男と映画


現在、私のメイン仕事である「昭和40年男」10月号(9月10日発売)の編集作業が佳境に入っている。今回の特集テーマは「宇宙」と銘打っているのだが、これまでとはちょっと違うコンテンツを扱ってみた。それは映画「スター・ウォーズ」である。詳細は発売後のお楽しみだが、「スター・ウォーズ」よりもここでの力点は「映画」という単語の方にある。

これまで「昭和40年男」では、テレビ全盛時代に育った我々という史実を念頭に、「ウルトラマン」や「仮面ライダー」、「8時だヨ全員集合」などの人気テレビ番組を多く扱ってきたのだが、「映画」というのは微妙な存在だった。

今では様相は変わったが、昭和40~50年代当時、映画はテレビによって娯楽の王様の座を追われ、人々の習慣の中心から徐々にはずれていっていた。だから、30年代を知る人ほどには映画作品における共通体験というのがないのだ。

そこに変化をもたらしたのは劇場版「宇宙戦艦ヤマト」の登場あたりからだと思うが、その翌年公開された「スター・ウォーズ」でさえ、SF映画の金字塔であるにもかかわらず、「オレたちみんな見に行ったよな」とはすっぱりと言い切れなかった。宮崎アニメが幅を利かせ出した頃からはそういう言葉を映画に使うこともできるようになったのかも知れないが、少なくとも昭和55年くらいまでは“映画は遠い存在”という逆説的共通認識が昭和40年生まれ前後の世代には確かにあったと思う。取り分け洋画に対してはその傾向がいまだに続いているように思える。

このあたりは今後の特集を考える上で、押さえておかなければならない条件なのかなと思っている。
「あなたが見て印象に残っている映画は何ですか?」一度まとめて調査してみるべきかも知れない。

2011年8月22日月曜日

カレーに醤油をかけてた頃


突然だが、皆さんはカレーに何をかけていましたか?醤油?ソース?それともケチャップ?

いったい何を言っている?という御仁がほとんどかも知れないがちゃんと答えを持っている方も少なくないはず。そう、その昔、我々はカレーに何かをかけていた。特に年配の方は、ジャブジャブかけてグルグルかき混ぜて食うのがたまらんのだ、という通が少なくない。でも、今そんなことをするのは変わり者の部類だろう。だいいちオジサンには塩分の取りすぎになりかねないし。

しかしなぜ、昔は醤油などかけていたのだろう。いろいろ調べたところ、昔のカレー、戦前のカレーのルーはわりと味が薄かったらしい。さらにスパイスの辛さに日本人が慣れていなかったため、醤油で中和していたということもあったようだ。

醤油かソースかについては目玉焼きと同様、かつては大論争があったはずだが、おおむね東日本は醤油、西日本はソースという傾向が強かったようだ。

結局カレーの味の変化から、論争は結論を得る前に自然消滅してしまったわけだが、はて、いつ頃我々はカレーに醤油をかけなくなったのだろう。

私の記憶では、16年前に名古屋で初めて食べたCoCo壱番屋のテーブルには醤油の瓶が置いてあった。ソースもあったが、これは基本的にカツカレー用。確か当時はココイチ専用醤油みたいな触れ込みで店の名物に仕立てていた。わたしも、7辛以上を注文したときはひとかけしていた。その後、1回使い切りサイズの袋入りのものがしばらく置かれるようになって、いつしかそれも姿を消した。今はもうない。推測するに、21世紀に入った前後には消えたように思える。つまり、カレーに醤油文化は20世紀とともに終焉を迎えたと結論づけられよう。

今では私もカレーに特に何もかけない(強いてかければトビからスパイスくらい)。でが何かかけなくては気が済まない本能が、いまだに気持ちの奥底でうずく瞬間を感じたりする。幼少期の刷り込みはそう簡単にぬぐい去れないのだろう。

そこで思った。昭和レトロにあこがれる需要を満たす狙いとして、少し味薄めの「醤油かけカレー」を商品化、もしくはお店のメニューに加えてはどうだろうか。子供には何のことやらかも知れないが、40代以上の大人には必ず琴線に響くはずだ。↓こんなものも実際出ているらしいし。

2011年8月21日日曜日

昔の少年ジャンプの話をしよう


最近はほとんど漫画雑誌など読まなくなったが、「少年ジャンプ」は強い影響を受けたのは間違いない。同世代の方なら同じ意見だろう。その「ジャンプ」、はて、いつから読むようにいなっただろうか。

たぶん最初は床屋。月に一度、浦和の家の近くの村田床屋というのにいくことがほぼ義務づけられていたのだが、そこの待合席においてあったのはすべて「週刊少年ジャンプ」だった。しかも半年分くらいはまとめておいてあった。最初は幼稚園の頃のはずだから、「ど根性ガエル」や「トイレット博士」あたりからだと思う。野球マンガでは「侍ジャイアンツ」があったが、巨人は好きじゃなかったので読もうとはしなかった。そのためか、「ジャンプ」=ギャグマンガの宝庫というイメージが私個人の中には染み付いている。

「ど根性ガエル」はメジャーすぎるのでここでは割愛。「トイレット博士」というのはまた不思議なマンガだった。、話の中にトイレット博士なる人物がぜんぜん出てこなかったのである。スナミ先生というのが出てくるが、これが別名トイレット博士なのかとも思ったが、そんな描写はいつまでたっても出てこない。実は連載開始からしばらく後、企画変更があったせいなのだそうだが、私が読み始めたのは途中からだったためこんなことになっていたわけだ。そんな事情がありながらも、タイトルは変えずに連載を続けているとは、ずいぶん大らかな編集というかずぼらな作者というか。

それでも、下ネタオンパレードの「トイレット博士」はインパクトあったなあ。ちょうど世間で六価クロム汚染が話題になった頃、給食のカレーを床にぶちまけたのを見たスナミ先生が「これは六価クロムに違いない」とやっていたシーンはいまだ何忘れられない。


「トイレット博士」とほぼ入れ替わるタイミングで始まったのが「こちら葛飾区亀有公園前派出所」だ。何だこの長ったらしいふざけたマンガは、というのが最初の印象。でも、絵のすごさにたちまち引き込まれた。今ではどのマンガでも当たり前の手法だが、実物の車や街の背景を実物そっくりに書き込むという方法を見たのは「こち亀」が始めてだった(同時期のマンガでは「ワイルド7」の望月三起也も得意としていたが)。いまだに連載が続いているとは、当時想像だにしなかったが、長く続いている理由もまた、当時の作風から納得できるところもある。

その後しばらく、ジャンプを読む機会が減ることになる。復活するのは「ドクタースランプ」がブームになる頃から。そのあたりの経緯はまた後日。

2011年8月20日土曜日

来年の大河ドラマの話をしよう


まだ8月だが、来年の大河ドラマの話をしようと思う。今年のは、あまりに残念な内容になってしまっているのでもはや語るに及ばず。その反動というのでもないが、徐々に明らかにされているキャスト陣や、それらが演じる登場人物の、これまでの歴史観に挑戦状をたたきつけるような位置づけが、私のような時代物好きの気持ちをかき立てているのである。もちろん、実際に画が動いてみないと確かな評価もできないし、大胆な時代描写となっている分大ばくちの側面もあって、裏目に出るリスクも当然あるが。

来年の大河ドラマは「平清盛」。大河ドラマはちょうど半世紀を迎える(現行のは50作目だが2年で3作品やった時期があるのでズレがある)。勝者によって塗り替えられていくのが宿命である歴史においては敗者、悪役と祭り上げ挙げられがちなこの人物を、その時代のヒーローとして描いていくのが今回のドラマの趣旨だ。これだけでも挑戦的と言える。とはいえ、大河10作目「新平家物語」でも清盛は主役で登場しており、その意味では大胆さは薄い。

問題はまず、清盛の位置づけだ。一般に伝えられているところでは、清盛は武家にして始めて朝廷への昇殿が許された平忠盛の嫡男ということになっている。だが、院政の創始者であり時の最高権力者である白河法皇の落胤であったとの説が伝わってもいる。この異説には物理的に無理があるとの指摘が多く、現代ではほぼ否定されつつある。だが、今回のドラマではこれを正面から“あったこと”として扱うようだ。「新平家~」ではそれとなく匂わせるに留まっていたが、ある意味タブーと言うべき域に敢えて踏み入れようと言うことなのだろう。1000年近く前の法皇といえど、仮にも天皇家であり、触れると何かとやっかいな領域でもある。

脚本家の意向か演出の要望かは解らないが、これが制作側の挑戦的姿勢ということははっきり伝わってくる。この松山ケンイチ演じる清盛出生の秘密に大きく係わる人物を、かつてのアイドル・松田聖子を当てようというのもまたチャレンジだ。ここの設定がドラマとして成立するかが、ドラマ全体が成功するかのカギと言えるだろう。

もう一つ、期待を持たせてくれるのが、ドラマの語り部を、平家を討ち滅ぼした源頼朝にやらせるという設定だ。平家物語の琵琶法師ではなく、平家の仇そのものに語らせる。しかも、清盛が敢えてその命を救ったことが後の滅亡につながるという皮肉きわまりない人物にだ。

また、清盛とは同志であり後に敵ともなる後白河天皇(後に法皇となるが)を、巨人の星の星飛雄馬と花形満のような関係で描こうとしている点も、これまでになかったとらえ方だ。よくこんな面白い関係に着目したなと、脚本家・藤本有紀の視点には感心させられる。無論これも、画を見てからが本当の評価だが。

ほかにも、宮中の背後で隠然たる力を持つ女たちの泥仕合を檀れい、松雪素子が演じるというのも大いに期待。この設定が面白くならないわけがない。

すでに公式サイトで公開されているが、設定初段階でこれほど期待を駆り立てる大河も久しぶりだ。はたしてどんな画が展開されるのか、心配なのはそこだけだ。

2011年8月19日金曜日

テレビ画面を汚す放送局


このところ、テレビ画面の汚れが目立つ。掃除していないという意味ではない。デジタル化でハイビジョンとなったのに汚いのだ。画質のことではない。無駄な文字が画面を汚しているのである。

きのうは特にひどかった。日本在住の方なら誰もがご存じのように、昨日は無茶苦茶暑かった。関東では38℃に達する地域が続出し、節電下の電力消費量もあわや限界越えかというところまで上昇した。これらの情報が、いわゆるL字表示というやつで逐一画面に現れるのだ。さらに細かい地震の情報も重なって、画面表示に負い重なるのである。確かに、熱中症で命を失う人も少なくなく、電力の見える化も重要な情報であろう。地震についても言わずもがな。

だが、少しお節介が過ぎないかとも思うのである。テレビに言われなくても暑いのはいやと言うほどわかってる。そう思えばエアコンも付ける。それより今見ている番組に集中させてくれ、そう思うことが少なくない。ニュース速報も「何でこれが緊急?」というものも最近では少なくない。ネットの情報と競っているとでも言うのか。でもそれはテレビに悪印象を与えるだけで返ってマイナスではないかと思わないのだろうか。

せっかくデジタル化完全移行が成されたというのに、そのメリットを生かしていないようにも思う。もっとデータ放送を活用すればいいのではないか?NHKのデータ放送には、近隣で雨が降り出すとポップアップで知らせる機能というのがある。これは視聴者のリモコン操作でしまうことができる。この仕組みを使ってニュース速報を流し、見たくない人はキャンセルできるようにすればいいのである。これでせっかく録画しているドラマに余計な文字が混ざってしまうこともなくなる。

もっとも、この画面を汚すことを能動的にやっているケースが民放を中心に見受けられる。これこそがテレビ画面を加速させていると私は見ている。例えばアニメ番組で、画面の最下部にDVDなどの発売情報を流したり、次の時間帯の番組のお知らせなどを流すことがある。これには副産物の広告効果のほか、録画したコンテンツが違法に出回るのを防ぐ効果を狙っているのである。権利保護は確かに重要だが、そんな露骨な方法をとらなければならないとは思えない。むしろ局の印象を悪くするマイナス効果の方が強いと思える。だいたい放送中のコンテンツを汚すこんなやり方は、テレビのために作品を作っているクリエーターたちに対して失礼ではないかと思う。

テレビ離れへの危機感は放送関係者の誰もが意識していることだろう。その中で何をやるべきで何をやってはいけないのか、自局の放送画面を見つめながら今一度考え直して欲しいと思うのである。

2011年8月18日木曜日

エアコンの甘い蜜


この十日あまり猛暑が続いている浅草である。前にも書いたが、この時期暑いのは陽が東から昇って西に沈むくらいに普通のことで、そこを殊更騒ごうとは思わない。だが、昨今、というか今年の夏に限ってのことでもあるが、テレビの情報番組などで「エアコンを上手に使って体調管理を」と呼びかけている様子には弱冠の違和感をおぼえる。

言わずもがな、今年は節電必至の夏。電力消費量が去年の最ピークの70~80%に押さえられているのはこの考えが浸透し、国民こぞって実行している証だ。ほかのことでもこれだけ国民が一丸なれば何かが変わるのではないかとさえ思ってしまう。そんな節電努力を心がける一方で、「エアコンを付けろ」というメディアの言葉は水を差しているようにも感じられるのだ。

もちろん、過度の節電をする必要はなく、節電しすぎたあまりエアコンを付けるのを我慢して体調を崩す(下手すると死に至る)人が出るのを押さえる意味であるのは百も承知。

だが、あまりエアコンに依存しすぎて体調をおかしくすることがあるのも周知の通り。つい最近までは「エアコンの付けすぎには注意しましょう」なんて呼びかけがテレビからも盛んに成されていたはずだ。CO2削減の観点からもエアコン使用を押さえたほうがいい、そういう言い方だったはずだ。結局、エアコンは付けたほうがいいのか使ったほうがいいのか。結局最終判断は自分次第、というワケか。

そんな中で自分はどうかというと、この一週間ばかりは1日平均6時間くらい、エアコンを回している。それ以外の時間は外出時を除き、ベランダの冊子と洗面所の窓を開けっ放しにして風を通し、扇風機と組み合わせて対処している。日当たりがいい部屋ではあるが直射日光はうまい具合に入ってこず、適度な風が肌に優しい。マンションの7階というのもメリットが大きい。

正直、電気代がもったいないからと言うのが冷房を抑えている最大の理由なのだが、慣れてしまうと実に心地がよい。むしろ、冷房が効いた喫茶店に長時間滞在したあと外に出るときの反動を考えると、ほどよい暑さに長時間浸る方が健康的とさえ思える。

エアコンの涼しさは確かに魅力的。でもそれは禁断の蜜の味のようにも思える。それはどこか、昨今の原発要不要論にも通じるようにも思える。いずれも、人間の感覚のコントロールが大事ということは間違いない。

2011年8月17日水曜日

ウルトラマンはファッション?いや伝統芸能だ



きのう(8月16日)発売のPEN9月1日号には正直、ビックリした。PENといえば大人の男のファッションに重心を置いたカルチャー誌。そんな大人の雑誌が今回表紙に据えたのはウルトラマン。特集は円谷プロ大研究ときた。


ファッション誌とウルトラマン。これほどのミスマッチもないものだが、よくよく考えるとそうでもない理由が見えてくる。今年はウルトラマン(その前のウルトラQも)がテレビ放映開始から45周年。初代を本放送で見た子供も今や、社会の中間管理職から役員レベルに差しかかろうとしている。ウルトラを知らない社会人はむしろいないと言っていい。ウルトラマンは普段はいてるジーパンやTシャツくらいに身近な存在であるわけで、そういう格好良さを競おうというのならウルトラマンをファッションアイテムと捉えて何のはばかることやあらん、だ。

私が手がけている雑誌「昭和40年男」でもウルトラがらみの記事はたびたび書いていて、書き重ねることにウルトラマンの偉大さを噛みしめている。読者層的にはほぼ重なるPENの編集部も思いは同じだろう。
ウルトラマンのすごさは様々あるが、40代半ば以上の我々とその子供たちが同じ番組を同じ視点で同時に感動し、笑える人類史上唯一のコンテンツではないかと私は確信している。

親子二代、3代で楽しめるヒーロー作品は仮面ライダーやゴーカイジャーもそうだが、これらの場合、同じ番組を親子で見ながらも受けるポイントが親と子でズレがあったりする。子供は合体ロボが登場するシーンに興奮するのだが、我々はかつての戦隊ものに出ていた懐かしの役者が登場する場面にニンマリするといった具合。

ところがウルトラマンの場合、45年前のバルタン星人とイデ隊員が交わすやりとりに、親と子が同時に笑ってしまい、バルタン星人が分身するトリック撮影に今でも度肝を抜かれるのである。このウルトラの恒久感はちょっとほかの作品ではお目にかかれない。それはワンパターンというのとは違うのである。

先にウルトラマンもファッションと書いたが、こう考えるとライダーや戦隊などほかのヒーローものがファッションであるのに対し、ウルトラマンは伝統芸能と捉えた方がいいかもしれない。歌舞伎や浄瑠璃と同列なのである。ウルトラマンも初代からセブン、帰りマンと来て最新のウルトラマンゼロまで代々受け継がれているヒーローの役目は歌舞伎役者の名跡襲名と重なるではないか。

ではなぜ、そんな伝統宇芸能に到達するウルトラマンカルチャーが誕生し得たのか。それはこの紙面にぎゅっと詰まっているので熟読して頂ければと思う。ずっと見続けてきた濃いファンも、子供に釣られて久々に記憶が甦ったという方にも絶対満足のいく内容である。あ、私は別に書いてませんがね。書きたかったなあ。

2011年8月16日火曜日

たかだか20年前にあったこと


きのうは終戦記念日。昭和16年12月の太平洋戦争開戦から数えると今年でちょうど70年になる。私が生まれたのは終戦から21年たった昭和41年だが、小学生の頃のこの時期になると、自分が経験しなかった遠い歴史に思いをはせたものだ。

それは半ば強制的にというより、原爆の日の朝、いつもの朝ドラじゃない番組をやっていたり、終戦の日の正午になると高校野球の試合を中断して黙祷を捧げる様子を、街の夏祭りの同列の季節の風物詩として体験してきた習慣によるものだろう。

この日に合わせ、特にNHKでは特集番組を組み、廃墟となった東京の白黒映像がテレビに映る。いかにもはるか昔、という映像だ。これが私が生まれ育った街々の20数年前のものかというのが信じられなかった。

だが、2011年を生きている今、ふと思う。あの廃墟の東京はそんなに遠い時間のものなのかと。自分が生まれるたった21年前ではないかと。今から21年前はというと、1990年。もう平成は始まっていた。昭和の懐かしさとは対照的に、「平成」というと“つい最近”というのが我らの世代の感覚だ。だが、もう21年たってしまっているとも言える。

1990年といえばバブル経済の絶頂期。終戦時と高度成長期を比べた20年の変化とは全く正反対の意味で今とは隔世の時代でもある。だが、やはり我々には“つい最近”に過ぎなくもある。生まれる前の20年と、自分が生きてきた中での切り取った20年。ずいぶん違う感覚なのだなと思える一方で、どちらもたかだか20年と思うこともできる。

歳を重ねるにつれ、“たかだか”の20年の感覚が強くなってきているように思う。遠くなっていく戦争の時代が、返って身近になりつつある。人間の感じる時間間隔とは複雑で、且つ面白い。

2011年8月15日月曜日

コミケに集まる50万人はみんなオタクなのか?


今年の夏コミも大盛況のうちに幕を閉じた。前年より少し入場者は減ったというが、それでも3日間で50万人を軽く越えた。最終日のきのうだけで20万人の人出があったという。私もその20万人の中にいた。

歳のせいか、開場前の長蛇の列に耐える自身はなく、今回は行列を避けて11時過ぎにビッグサイトに到着。それでも、建物の中でそれなりの行列ができていて、さらに節電で空調を弱めてるせいもあるのか、サウナのような空間をしばし通り抜けるハメになった。まあ、これも季節の風物詩なので許容範囲だ。

ふと不思議に思った。先日、横浜のイベントで参加したファンらが相次いで熱中症で倒れたというニュースがあったが、長年続いているコミケでこの手の話は一度も聞いたことがない。ちゃんと統計を取ってないだけなのかも知れないが、会場の周囲で救急車のサイレンが鳴り響くなどということも記憶にない。オタクは暑さには強いのだろうか。汗かきデブのイメージなのに。

同人誌ブースはどこも人人人。例年にまして歩きづらいようには思えた。やはり日曜に限っては人は増えてきているのだろう。

そこでもう一つ疑問が湧いた。俗に“オタク三大祭り”の筆頭(あとはSF大会とワンフェスね)といわれて久しいコミケだが、50万人もオタクが湧いてくるものなのかと。いつからこれほどの大人数になったかははっきりおぼえていないが、秋葉原がサブカルチャーのスタンダードに祭り上げられて以降、オタクの扱いには明確な変化が起こったのだと思う。我々が初期に体験した、キモイ、暗い、臭いといったオタクバッシングは20世紀の終わりとともに歴史の彼方に去り、2001年以降、深夜にアニメを見るのもゲームをやるのも、オタクに限らず誰もがやる普通の文化の中に浸透した。アニメはテレビ局にとっても稼ぎ頭であり、もはや単なるジャリ番の扱いではなくなっている。もう言い尽くされている分析かも知れないが、もはやオタクカルチャーは30歳より若い世代にとっては人格形成の一部に組み込まれた機能と言いきれる。その結実がコミケの50万人という形で現れているといえる。

一方、古参のオタクの間からは濃さが薄まりつつあるとの指摘もある。例えば、一時期企業ブースの半分くらいを締めていたエロゲメーカーの出店が極端に減った。いいことといえばいいことなのだろうが、一抹の寂しさも禁じ得ない。エロ要素はいま、専門業者の手を離れ、地上波でも放送される普通の美少女アニメの中にそこはかとなく挿入される形で生き延びているのが現状だ。素っ裸になった女の子の絵がパッと画面に登場するものの、不自然に差し込む光で局部は隠すというあざといやり方だ。でも、たぶん見ている若者は、あれで大満足とまでは行かないものの、納得はして楽しんでいると思うのである。見えない局部は妄想してしまえばいいだけのことだから。そう考えると、このコミケにおけるほどよいエロの位置づけこそが、表現におけるエロ描写の最適解なのかも知れない。その表現にはもちろん、スク水姿のコスプレなども含まれる。

昨今、エロ描写をめぐり公的な立場からあれこれ指摘する声が顕著だが、こと今年のコミケを見る限り、その指摘が的外れであることははっきり確認できたといえる。

2011年8月14日日曜日

ナポリタンだよ!全員集合


昭和の子供の大好物といえば、カレー、ラーメン、そしてスパゲティが3大料理だ。ことにスパゲティは、ナポリタンかミートソースに限る。最近のこじゃれたイタメシ屋で出されるバジルがどうのとかオリーブがどうのとかそんなのではない。トマトケチャップで炒めた真っ赤っかあなあの感じがいいのである。え?あんなダサイのの本場のナポリにはない?そんなことはどうでもよい。あれが日本の洋食の色なのだ(日本の洋食という時点で言葉が破綻しているが)。間違っても“パスタ”などと呼んではいけないのである。

そのスパゲティ・ナポリタンに、ここ数カ月凝っている。自宅でもやたら作るようになった。きっかけは、とある仕事の合間、渋谷のビルの谷間で見つけたスパゲティ屋との出会いだった。一見風俗店のような看板に書かれた店の名前は「パンチョ」。イタリアというよりはメキシコっぽいが(旗を横にしただけ?)、入り口に貼られていたスパゲティナポリタンの赤々とした写真に反応した。しかもスパゲティの上には厚切りのベーコンやとろけるチーズが載っている。おお、これだよこれ、昭和の洋食の感覚。最近じゃ地元浅草でも少なくなった昭和感覚の佇まい。

有無をいわさず店に入ると、いかにも安っぽい感じ(褒めてますよ)だが、おいしいものが出てきそうな匂いが漂っていた。しかも、壁を見渡すと懐かしめの映画のポスターがベタベタと。80年代を中心に一世を風靡した邦画のものばかり。本当に昭和だ。席に座ると、目に入ったのは粉チーズがガバッと入った容器と、タバスコのぶっとい瓶。いずれも容赦なくぶっかけてくれといわんばかりだ。

そして待つこと数分、注文したチーズ載せ400㌘が運ばれてきた。銀色の皿も昭和40年代な感じ。真っ赤なスパゲティには刻んだソーセージとガバッとかけられたピザ用チーズ。もう子供が大好きなものばかりの取り合わせ。これにさらに粉チーズを大さじ2杯まぶして、ガブ!う~ん、想像と寸分狂わぬ豪快な味。気を衒わない素朴な味わい。逆に言えばほとんど面倒な味付けはしていない粗雑さが、何とも言えなかった。

うまかった。それと同時に「これならうちでも作れるわ」と、週に1度は家で作るようになったのである。

その後、調べてみるとこの「パンチョ」、御徒町の駅前にもあることが判明。秋葉原へ行く途中で立ち寄ったこともあったが上野広小路からというのはちょっと面倒で、最近は行ってなかった。

ところが、である。きのう秋葉原のPCパーツ街をぶらっとしていたところ、かの看板が目に入ってきた。おお、なんとこんなところに出店してくれたのか。場所はたったったたたーちばな書店のビルの地下、といえばお分かりだろう。この場所、しばらく新しいラーメン屋が進出してはすぐ閉店という経緯をたどっていたのだが、このパンチョはアキバの新定番になると私は確信する。あのテイストは今の井アキバにこそぴったりだ。案の定、オープン初日のきのうは行列ができていた。すぐはす向かいの伝説の豚丼の店や九州じゃんがらラーメンにとっては強力なライバル登場だ。アキバB級グルメの熱き戦いが再び始まった。

2011年8月13日土曜日

昭和60年8月12日、テレビで見たこと


日本人として、あるいは20~21世紀を生きてきた人類として、記憶に刻んでおかなければならない日付というのが幾つかある。最近は大きな災害や事件が頻繁に起こるせいか、おぼえきれないというか、思い出したくもない日付が増えてしまっているが。それでも、8月にはそういう、記憶に刻むべき日付が多い。たいがいが戦争がらみだが、唯一、毛色が違うのがきのう、8月12日だ。

あれからもう26年もたった。昭和60年。当時大学受験を控えた浪人だった私は、夕方、テレビを見ていた。忘れもしない、TBSが映画「東京裁判」を2日連続でノーカット放送していて、その日が2夜目だった。そのビデオは今見実家に保存してあるが、状態が悪く今も見られるかどうか。だが、その映像は間違いなくわが記憶の中に保存されている。日航機墜落の速報テロップと込みで。

映画の放映時間は3時間くらいだったか。さすがに延々と見ているわけにもいかないと、7時半くらいにNHKにチャンネルを変えた。ちょうど7時のニュースが終わりかけていたその時、キャスターの松平定知アナウンサーが奇妙なニュースを読み上げた「日航機の機影がレーダーから消えました」と。へ?何のこと?そんな薄っぺらな反応以上のものはなかった。その時、あんな大惨事が起こっていたことなど思いもしなかった。

再びテレビのチャンネルを6に戻し映画の続きを見た。だが、映画を放送している間にも、頻繁にテロップが割り込んでくる。ただ、情報は断片的で、何が起こっているのかよく解らなかった。素人感覚で、民間航空機がロストすることが大変なことであるというところに結びつかなかったのだ。

そして9時になって、再びNHKにチャンネルを変えた。「ニュースセンター9時」の木村太郎キャスターが緊迫した面持ちで続報を伝えていた。さすがにここで、かなりまずいことが起こっていることが判ってきた。おそらくジャンボ機が落ちたのだということが。だが、私は返って違和感をおぼえた。この狭い日本で、あんなでっかいジャンボ機が墜落したなら、すぐに知らせが入るだろうと。だが、落ちたとの確報はしばらく立っても出てこなかった。すぐに思い出したのは2年前の大韓航空機撃墜事件。まさか打ち落とされて空中分解?それで機体が木っ端みじんで見つからない?そんなことさえ想像した。

結局日付が13日に変わる直前くらいだったか、自衛隊機が群馬の山林に日航機らしき機体が炎上しているのを発見したとの一報が、テレビから伝わってきた。群馬?大阪行きの飛行機が何でそんなところに?謎は深まるばかりだった。結局その夜のうちに一般人レベルが知り得た情報はここまで。乗客がどうなったのかとか原因はとかなどはぜんぜん判らず。私も寝床に置いたラジオを付けっぱなしにしながらそのまま寝てしまった。

そして朝、6時くらいのラジオのニュースが、日航機の墜落がはっきりしたことを伝えた。そして居間のテレビを付けると、画面に浮かび上がったのは山肌にへばりつくようにぺしゃんこになったジャンボ機の残骸と、周りから上がる煙だった。まだ火も見えていたと思う。事故に関して、私は単なるテレビ視聴者の域を出ないが、あの朝の映像は、そうそう忘れられるものではない。その時間を経験した一人として映像をきざみ、何らかの形で次の世代に伝えていく任務を負っているのだと、私は思っている。2011年3月11日のあの時に比べれば、たいしたことはないと後に言われるかも知れない。8月15日のように教科書に刻まれることもないかも知れない。だが、青春時代に体験したあの日の夜、あの日の朝の印象は、自分の中で何十年経ようとも絶対消えることはない。

2011年8月12日金曜日

ハッピーロード大山


きのうの仕事先は板橋区の大山だった。池袋から東武東上線の各駅停車で3つ目。下町というのとは違うが、都心とほぼ隣接しているこの地域には独特の風情がある。駅を降りた目の前に広がる商店街・ハッピーロード大山がこの街の顔、この街のすべてと言ってもいいかもしれない。

実はこの大山、私にとってはちょっとした思い出の地だったりする。小学5年生の頃だから、今から35年くらい前か。当時鉄道少年だった私は(今でもそのスピリッツは消えたないが)特に鉄道模型に凝っていた。大山には、模型メーカー・グリーンマックスの直営店があって、月に1度くらい、浦和の家から通っていた。まだ小学生だったからちょっとした冒険だったが、友だちと一緒に電車に乗れるだけで嬉しくて、ぜんぜん怖さなどはなかった。

大山の商店街にアーケードができたのはちょうどその頃だった。今でこそ屋根の付いた商店街は地方都市などを含めどこにでもあるが、このハッピーロード大山が日本で最初ではなかったかと思う。まだわが地元浦和には大きな商業施設はなく(伊勢丹・コルソができるのはこの2年くらい後)、東京の商店街はひと味違うんだなと感心した記憶がある。

その大山を久々に歩いた。当時と比べてどう変わったかが判るほどの記憶力はないが、グリーンマックスまでの道順は身体がおぼえていた。ちなみにこの日の訪問先はそこからちょっと先(その話はまた後日)。商店街の真ん中あたりの角店を右に曲がると見える踏切の警報機が目印だった。そして30年ぶりのその店は、さすがになかった。だが警報機は、姿を変えて残っていた。グレーに塗られたその姿がちょっと痛々しい(写真)。調べたところ10年ほど前に店を閉めたそうだ(グリーンマックスの会社はもちろん残っているし、鉄道模型のキット<組み立てモデル>メーカーでは確固たる地位を維持している)。跡地は外資系損保の事務所になっていた。

まあ、時代の流れは仕方がない。訪問先での仕事を済ませた後、昼飯がてら商店街をぶらぶらと。30年前の周囲の店の記憶はほとんどないが、佇まいそのものは悪くない。浅草とはちょっと違うが、真昼でもそれなりの人通りはあるし、おいしそうな店も何軒か見受けられた。大山駅の立て付けも、エレベーターが最近新設されたようだが、おおむね30年前と同じ。またそのうち、時間を作って訪れてみたい。

2011年8月11日木曜日

ちゃんと暑い夏がいい!


暑い夏。7月後半が涼しすぎただけに。より堪える。でも、どこかでそれを喜んでいる自分でもある。どこかで、というよりはっきり言って暑ければ暑いほど胸躍るのだ。8月はやっぱりこうでなければ。

昔、ある食品メーカーを取材したとき「暑いときはちゃんと暑くないと困るんです」と言っていた役員の言葉が今も頭に残っているが、季節のバランスとはそういうもの。国の景気を支える根幹だと思う。だから、40℃にも達しない暑さごときで騒ごうとは思わない。暑いと思ったら涼しさに投資すればいい。経済を回すためにも、気候に対して素直に生きることだと思う。

とはいえ、寝苦しさはいかんともしがたい。このブログを朝イチで書くようになって以来、早めに起きる習慣にしているのだが、最近ではむしろ暑さのおかげでより早く起きるようになってしまっている。早起きは三文の得などというが、それも暑さに感謝すべきということなのだろう。

だが、睡眠時間6時間足らずとなると、やはり昼間は眠気がつきまとう。特に昼飯を食べた直後あたり。この時間に予定を入れていないなら、近所のドトールかプロントに入ってアイスコーヒーを口に含みつつのお昼寝タイムである。冷房ガンガンの店内よりも、できれば多少風が通る軒先がいい。10分もウトウトすると、コーヒーの効果も出てきて俄然シャキンとしてくるのである。

節電の夏、巷ではサマータイムが流行りというが、むしろピーク時の電力消費を抑えるなら、1~2時は空調を切って、ひなたぼっこ&お昼寝タイムに当てた方が労働効率はよほど上がるのではなかろうか。実際、TRONでおなじみの坂村健教授が近著でそんな指摘をされていた。今こそスペインに学べ、である。

2011年8月10日水曜日

夏アニメ、アイドルマスターとかピングドラムとか


7月スタートした夏アニメ。前期の「Dororonえん魔くんめ~らめら」が世代的にあまりに強烈だったせいで、拍子抜け感が否めないのだが、気になって続けていている作品はちゃんとある。

まずは待望の“ちゃんとした”アニメ化となった「アイドルマスター」。どうしてもゲームのキャラとデザインを比較してしまうのだが、歌う場面以外では始めて活発に動く765プロのアイドルたちを表現するデザインというところはしっかり押さえられていて、まずは合格と言える。何しろアーケード向けゲームから数えると7年も前から続いているコンテンツであり、プレーヤーには各キャラのイメージはしっかり出来上がっている。1から設定を考えなくてはならないほかのアニメとは逆の意味の難しさが当然あるはずだ。下手にアニメだけの設定を挟めば、たちまち最近のロンドン状態となるのは目に見えている。回によっては既存設定の面が強調されすぎているケースも見受けられるが、おおむね期待に応えているレベルにあると言っていい。ただ、回を追って難しくなってくるのは誰の視点で話を進めるかになりそうな気がする。ゲームではプレーヤー自身だったプロデューサー(役名もまんまプロデューサーなんだな)の視点ということにはなるはずだがあくまで主役は13人のアイドルであって、ゲームプレーヤー=プロデューサーが「オレがオレが」となってしまってはアニメ作品としては×だろう。それは見る側も作る側も押さえているはず。でも、未熟なアイドルたちを育てるのはプロデューサーの大事な役割。はたしてどう割り振っていくか、2クール続くそうなので長い目で見守ろうと思う。

もう一つ気になっているアニメは「輪るピングドラム」。「生存戦略しましょうか」という、一見かっこよくも、実は行ってる意味がぜんぜんわからないナンセンス感と、大胆な作画ややたら割り込んでくる丸ノ内線の行き先表示版が、不思議な魅力を作っている。内容、ストーリーについてはどうこう言うものではないが、世界観全般において記憶に残るアニメとなりそうだ。

そんな注目作品が幾つかある一方で、深夜アニメ全般のマンネリ化も顕著になっているように感じる。ホモ設定やらユリ設定やらズリネタやら、「これさえ見せておけば視聴者は喜んでみてくれるさ」的な軽薄さが制作サイドに見え隠れしている。放送局もじり貧状態で、アニメの制作環境はますます厳しくなっているというが、あまり舐めた作り方ばかりしているとあっという間に陳腐化するのがアニメの世界でもある。その意味で、一団と切れのある作品を秋以降には期待したい。

2011年8月9日火曜日

やっとスター・ウォーズを見た


先日このブログで「ちゃんとは見ていなかった」と書いた「スター・ウォーズ」の第1作をきのう、きっちりと見た。30年以上前の作品だが、なんというか言い訳というか、今この時期が初見だったのが返ってよかったというのが第一の感想である。

無論、自称オタクの私とて、スター・ウォーズのおおよその世界観は知っていた。客ターの位置づけも、大まかなストーリーの流れも、もちろん第1作だけでなくスター・ウォーズ・サーガ全体の成り立ちもほぼわかっていた。触れていなかったのは通しの物語だけ。もちろんそこが映画に置いて最も重要で、それに触れていないのはどんなに言い訳しても知ったかぶりの域を超えないわけだが。

でも、1970年代中頃に作った作品を今見て(その後大幅な手直しが成されているとはいえ)思い知れたのは、現代における未来の想像感が全く古さがないことだ。これは特撮、アニメを含めほかの宇宙SF作品ではほとんどができていない重要な点だ。

よく、我々の世代が子供の頃に想像した未来感というと、大都市のそこら中に透明のチューブが張り巡らされていてその中をエアカーやリニアモーターカーが行き交ったり、謎の原理で作動しているフォログラフのようなテレビとか、実際に21世紀を迎えた私たちにとってはもはやギャグの世界でしかない“昭和な未来”だった。だが、スター・ウォーズに描かれていた世界は「あと数百年もたてばこういう世界観は確かにあるかも知れない」という想像を、35年たってもなお抱かさせる説得力が確かにあった。いわば恒久的な未来感を、ジョージ・ルーカスは誰よりも早く描き切れていた、そこには本当に感心した。

もうひとつ、これは事前の二次的情報から想像できたことだが、ほとんど悲壮感と無縁の、老若問わず心の底から楽しめる娯楽映画を、SFという最も取っつきにくい分野で実現していることも、いまさら私が言うことでもないがすごい作品だと感じさせた。普通(主として邦画において)、これだけあれもこれもと詰め込んでしまうと、ファミレスのお子様ランチのようにその時点で駄作に成り下がってしまうものだ。そこをそうさせていないのは、チャンバラにせよカーチェースにせよ、それぞれを徹底して表現したことで、見る側を場面場面に引き込んだということなのだと思う。安い映画だとそこに手を抜いてしまうからダメなのだ(そこのB級感がいいというマニアもいるが)。

それと、スター・ウォーズには悪い意味での重さがないのがいいのだろう。ルークとアナキンの親子の葛藤の描き方、もしこれが日本の作品なら、ルークが母親の話を持ち出して「親父のせいで…」という感じの辛気くさい話に流れて行ってしまうことだろう。そこを相違しなかったのは民族的な違いかどうかはわからないが。

こういうSFを娯楽として35年も前にさらりと仕上げられたスター・ウォーズ。不朽の名作と伝えられる訳がようやく解った1日は収穫だった。


2011年8月8日月曜日

節電の夏、涼を求めて街をさまよう


一昨日あたりからまた、わが浅草界隈も夏らしい暑さが戻ってきた。寝苦しかったり歩くのもつらかったり、煩わしさも戻ってきた一方で、この時期にこうでないのはおさまりがつかないと、私などは思ったりする。

で、節電の夏である。イマドキ、“いつもと違う”っぽさを確かめるにはコンビニに限る。まず目に付くのはアイス売り場。午後2時頃にはガリガリ君はすでに品薄。発売されて間もない梨味はすでに工場在庫も尽きたとか。1本62円の冷たいもので身体の中から冷やそうというのが、最も手軽な対処法というワケだ。

次いで品薄になっているのが炭酸飲料。なぜか三ツ矢サイダーなど透明なものから減りが早くなっているのが面白い。色の濃いコーラよりも、視点から来る清涼感にまずは引き寄せられるということなのか。とはいっても、コーラが売れてないわけでもない。通り端の自販機も、炭酸飲料を中心に売り切れのランプが付いているものが目立つ。自販機を消して節電に努めよなどとほざいたのはどこの誰だか知らないが、日本の文化において自販機は何においても生命線であることを赤いランプが如実に示している。

そんな暑い土曜日の午後のこと。小腹を満たそうと浅草六区のマクドナルドでチキンフィレオとコカコーラゼロを注文した。すると、通常真っ先に出てくるはずの飲み物の方がなかなか出てこない。店員が言った。「コーラのシロップが切れてしまいました。急いで補充しますのでその間こちらの爽健美茶でおつなぎください」。

爽健美茶の分、特をしてしまったと言えなくもないがコーラが一時品切れになるほど、需要が逼迫していることに驚いた。いまマクドナルドでは炭酸飲料100円セールをやっているそうなのでそのためもあろうが、シュワシュワ感にこれほど暑気払い需要があるとは、改めて驚かされる思いだった。

もう一つ、節電の夏の街の変化で気が付くのが、飲食店の席に必ずといっていいほど置いてあるうちわだ。冷房を弱めていることに対する免罪ということなのだろう。街角でうちわを配る光景も例年になく多いようで、このところ帰宅してカバンを開けると数枚はいっていることも珍しくない。これだけ大量にうちわが出回れば何らかの変化もあろうと思ったら、案の定、うちわの骨を作るメーカーが逼迫状態なのだそうだ。

どういうわけか骨の生産はほとんどが国内なのだという。これも意外だった。アジア周辺も含め、外国にはうちわ文化はないのだろうか。西遊記にはバショウ扇なんてのが出てきていたが。






2011年8月7日日曜日

なぜかスルーしてしまった「スター・ウォーズ」


現在、9月発売の「昭和40年男」の特集に取り組んでいる。次回のテーマは「宇宙」。物心ついたばかりの頃、人類が月に立った姿を見て始まった我々の人生にと向かい合おうというわけだ。で、私に与えられている役回りは「我々の宇宙観を育てたアニメ・映画」の厳選。自他共にオタクを認める自分にはうってつけ、のはずだ。

だが、問題はそう簡単ではない。確かに人より多くその手のコンテンツに接してきたはずではある。ウルトラセブンの最終回ラスト5分は映像を見なくてもすべて語れるほどだ。だが、一方でオタクなら当然、というより人類なら当然見ていて然るべき作品に真面目に接していないことにも気付く。

典型的なのが「スター・ウォーズ」だ。一連のスター・ウォーズサーガのうち、最初の映画として制作されたエピソード4「新たなる希望」が日本で公開されたのは全米に1年遅れての昭和53年。私が小学6年生の時だ。だが、劇場まで見に行こうという気は全く起きなかった。同時期公開された「宇宙戦艦ヤマト」の一連のシリーズはすべて初日に見に行った口なのに。これはなんなのだろう。

当時まだオタクという言葉はなかった。だから「オタクならこれとこれとこれは当然見ておくべき」というような範囲も特になく、単純に興味を抱いた作品に過度に執着していたに過ぎなかった。それが私にとっては、いい年こいてのウルトラセブンだったり、ヤマトだったりしたわけだ。その後ガンダムにも取り憑くことになるが。

だが、そんな流れの上に「スター・ウォーズ」はなかった。だが世界観そのものに興味を抱かなかったわけではない。日本公開前にコカ・コーラがやっていた王冠コレクションは集めていたし、R2D2やC3POの造形には確かに血が騒ぐものがあった。あるいはそれらを見せられたことですでにおなか一杯になっていて、映画の中での物語などどうでもいいと思ってしまったのかも知れない。つまり、オタクの原点はあくまでブツへのこだわりであり、そこで満足してしまうという、知ったかぶりともまた違う妙な性癖であるのだろう。

まあ、そんないい加減な野郎である私だが、次号ではこの「スター・ウォーズ」のフィーチャーを鋭意準備中だ。はたしてどんなページになるのか、9月10日発売の「昭和40年男」10月号にて確かめて欲しい。





2011年8月6日土曜日

タレントの時代、タレント不在の時代


芸能人には歌手、落語家、漫才師、最近ではグラビアアイドルなど様々な肩書きが存在するが、最もつかみ所がないのが“タレント”だ。最近は主に“お笑いタレント”を指す場合が多いが、その昔は“テレビタレント”“放送タレント”というカテゴリーがあった。いわゆるお笑い芸人ではないが、豊富な知識を背景に巧妙な喋り口で日常の笑いを引き出す、そんな知的さを漂わす“テレビの中の人”。それがタレントだった。Talent、直訳すれば「才能」。まさに才能あふれる知識人を呼ぶにふさわしい単語として誰かが発明したのだろう。

そんな放送タレントの先駆けが、昨日死去した前田武彦や、前東京都知事でもある故・青島幸男だった。黒柳徹子もその範疇だ。このあたりの名前を挙げれば、タレントとは何ぞやというイメージが何となくまとまってくるのではないか。イマドキの人で言うなら秋元康あたりも当てはまりそうだ。

テレビのバラエティ番組というと、最近では低俗かを嘆く声が多いが、テレビが熱かった1960~70年代のそれは、これら知的なタレントたちによって、笑いだけではなく細かな日常の知識をお茶の間の視聴者に振りまいていたのだった。先日インタビューした小松政夫さんは「コントだけじゃなく、歌があって、踊りがあってバラエティに富んでいるからバラエティ番組だったんですよ」と話していたが、これらのコンテツンを巧妙な喋りでつなぎ合わせる役を果たしていたのが司会業としてのタレントだったのだろう。マエタケさんもそうだが、そういう役割を放送作家が担っていたというのも、こうした番組構成を俯瞰すると至極もっともと言える。

いま、こうした番組の進行役はテレビ局所属のアナウンサーやしゃべくり系の芸人というケースがほとんどだ。一方で進行役のプロというような人が見当たらなくなってもいる。強いて挙げればみのもんたくらいか。アナウンサーの喋りには無論、目を見張る芸当を見出すこともあるが、放送上のガイドラインという枷もあって知識を広げる才能=タレントには欠けるものがある。お笑い出身の人もその点は微妙だ。家電芸人やらガンダム芸人などと称するまがい物タレントも最近ははびこっているが、オタクとタレントは似て非なるものである。

いま、ネットの発達によって知りたいことの答えが簡単に得られる時代になった。だからといって日本人全体がより知的になったのかというと、むしろ逆のように思えてならない。テレビ時代のタレントたちのように、知識面において国全体を引っ張るべき役目を担っているのは、αブロガーやソーシャルメディアを駆使したオピニオンリーダーということになるかも知れない。だが先駆者と比べてそれらの存在はまだまだ世間全般において薄い。今こそ、テレビ、ネットを超越したタレントの登場が待たれているのかも知れない。



2011年8月5日金曜日

オレんちの新聞にスクープが載ってない理由


このところ日本を代表する大企業をめぐる大スクープが相次いでいる。昨日は日立と三菱重工の経営統合の動きが報じられ、かなりビックリした。ほかにも、日立のテレビ国内生産からの撤退、東芝が携帯事業からの撤退などなど、とかく一般読者にはわかりにくい経済・産業記事も、これだけのビッグニュースには驚かされるはずだ。

この手の情報がこの時期、まとまって噴出する理由は幾つかある。一つは尋常ならざる円高水準。少し前には生命線といわれたはずの1ドル=100円などもはや夢の数字とさえ思えるような70円台後半というとんでもないレベルに、海外に市場を抱える日本企業は万策尽きつつある状態だ。とにかく考えられる手はすべて打てと繰り出した策の一部が、このようなスクープとなって現れている。一方で記者サイドもそんな小刻みに動く企業の重役の動きをフォローしながら、情報をつかんでは紙面に載せているというわけだ。他人の不幸は云々の理屈はさておき、経済紙記者にとってはまさに稼ぎ時だ。

だが、世はソーシャル時代。新聞読者が次々に離れていっている時代。そんな状況において興味深い事象がある。上に挙げた一連のスクープは、すべて特定の新聞による第一報が発信源となっている。が、その一方に接することができている読者はかなり限られている。早い話東京23区(一部を除く)の読者に限られるのだ。

そもそも新聞は印刷物であり、読者離れが顕著とはいえ、雑誌とは比べものにならないほどの部数を毎日さばく代物。そのため、新聞社のある東京からの距離に応じて4つのエリアに分け、1~2時間ずつずらして遠方エリアから順に、印刷所から配送されている。新聞の欄外にある「13版」「12版」と書かれているのがその区分けの印だ。朝刊の場合、一番早い、つまり最も遠方向けの「11版」通称早版の入稿締め切りは午後8時。ナイターのが終了しないうちに翌朝配る新聞は作られてしまうのである。田舎の民宿などに泊まって、置いてある新聞を読んだとき驚いた経験を持つ方もいるだろう。で、都内に配られる最終「14版」の締め切りは午前1時45分。その前の13版は午前零時で、おそらくこれが最も多くの読者がいる版だ。

で、問題はここから。先ほど上げたスクープが紙面に載るのは最終版のみなのだ。朝刊の紙面を紹介する朝のテレビ番組がよくあるが、あれをみて「うちのと違う」と思う人も多かろう。そのことを知っていて、自宅で定期購読しているにもかかわらず、わざわざ出勤途中の駅で新聞を買い直す人もいるだろう。

ここで素朴な疑問。「なんで新聞社はこんな差別をするの?」。一つは、上記で説明した物理的流通事情があるのと、13版まではライバル社が最終締め切り前に読める状況にあって、一般読者に届く前にスクープを潰される可能性があるためだ。

だが、こうした新聞社の体制や慣習は、私がその世界に入った1990年よりはるか前から続けてきた昭和の遺物だ。いまや「やじうま新聞」を待つまでもなく、最新情報はネットを通じてリアルタイムに誰もが接することができるようになっている。地道な取材活動によって得られた貴重な情報は確かに付加価値は高いが、その価値が読者離れを止める役目は残念ながら果たしていないのである。であるならば、取材が間に合わないといった時間の壁があるならともかく、版ごとに1面を差別するようなこそくな手段はそろそろやめるべきというのが私の提案だ。もはやそんなコップの中の争いにこだわっているときではない。

我々の生活に係わること、働く人々を少しでも救えるファクトを抱えているなら、しがらみを捨てて速やかな情報提供に務めるのがジャーナリズムの使命なのだから。下らぬしがらみを捨てた誠実さこそ、読者の信頼を確保する早道であることを、新聞関係者は知って欲しいと思うのである。




2011年8月4日木曜日

イマドキの高校野球 今年の地方大会から


ここ数年、高校野球が面白い。ただし甲子園ではなく、地方大会には興味深い事象が頻発している。エリート校が居並ぶ甲子園とは違って、ごく普通の高校から甲子園常連校までごちゃ混ぜの地方大会ならではというところであろう。

今年兵庫県大会であったのは[氷上西 0-71 姫路工]という試合。もちろん5回コールドゲーム。しかも勝った姫路工が後攻めだからわずか4イニングで71点をたたき出している。1イニングで33点も取った回もある。この間に12人アウトになっているわけだから、打撃機会は最低でも83回に上ることになる。これを9人で割ると、一人9打席は回った勘定だ。出塁はヒットによるものか四球かはわからないが、1人につきダイヤモンドを8周くらいはしていることにもなる。打たれたピッチャーにとっては地獄そのもの(もはや感覚はっ麻痺していたのかも知れないが)だろうが、攻撃側だって相当疲れているのではないだろうか。

もっとも、71-0なんてまだまだ序の口のようで、過去の記録を調べれば3桁まで行ったケースもあるそうだ。

かと思えば、広島大会では、あまりの激戦にベンチ入り選手を使い切ってしまい、交代方法を駆使した結果、審判サイドと大もめとなって長時間中断し、あわや没収試合という騒動が起こっている。いずれにせよ、真剣にプレーしている当人たちを不用意に笑うのは失礼とは思うが、現象は現象として受け止めざるを得ない。

そんな中で、いま動画サイト界隈で話題になっているのが、愛知県代表賭して初の甲子園出場を勝ち取った至学館高校が歌った校歌だ。まずは百聞は一見にしかず。とくとお聞きを。↓


なんというか、J-POPというべきか、アニメのエンディングテーマと言うべきか。時代は変わったと言うべきなのか。でも、何度か繰り返し聞いていると、なかなかいい歌詞であることがわかってくる。校名が出てこないのは校歌としていかがかとは思うが、新しい学校(2007年に共学化してリニューアルした高校だそうだ)が時流にあった曲調を校歌に選ぶのはむしろ自然だし、学校の個性でもあろう。

ちなみに、旧制中学からの伝統を持つとある高校の校歌がこちら。↓
【ニコニコ動画】盛岡第一高校 校歌斉唱 軍艦マーチ

軍艦マーチのカバーっぽいが、これも明治時代の流行歌にあやかったにあやかっているとも言える。校歌もまた時代を映す鏡なのだ。





2011年8月3日水曜日

浅草 位置情報サービス事情


今モバイルの世界で広がりつつあるのが位置情報サービス。ライブドアの「ロケタッチ」やはてなの「ココはてな」、海外勢ではFacebookのポイントチェック機能にfoursquareなど、市場形成期によくある乱立感を伴いながらも、一定のユーザーを獲得しつつあることは私自身の使用感からも如実に感じている。iPhoneに複数のアプリをインストールして使い分けている一も少なくないだろう。特に秋葉原や六本木、上野駅や東京駅などターミナルでのタッチ数は盛り上がりのバロメーターを示している。

だが、ひとたび繁華街を離れるとタッチ数は極度に減る傾向も一方である。そこに、アクティブなモバイルユーザーの分布図が現れていて、それはそれでまた興味深い。それが明確に現れているのがわが街、浅草界隈だ。

震災直後はご多分に漏れず来訪者ががた減りしていた浅草寺周辺も、5月の連休あたりからほぼ元の状態に戻りつつある。外国人観光客も再び目立つようになり、開業まで1年を切っているスカイツリー人気もあって例年以上の賑わいさえ感じさせている。

ところが、そんな賑わいがソーシャルメディアのバーチャル空間に置き換えるとまだまだ未成熟だったりする。雷門にほど近いスターバックス、ロケタッチでのリーダーはかくいう私であるのだが10回も通えばあっさりその座を奪い返すことができる。秋葉原アトレのスタバではとてもそうはいかない(開店してまだ半年しかたってないのに)。ほかにも、プロントやマクドナルドを始め浅草六区界隈のカフェや飯屋、中華料理屋のほとんどのリーダーは私だったりする。ついでに言うと銀座線の田原町駅も。でもほとんどが10回行ったかどうか。

早い話、この界隈の住人でロケタッチやFacebookを積極活用しているのは私くらいなのである。これは自慢話などではなく孤立感を感じるレベルなのだ。ソーシャルメディアにおける見事な地域格差だ。おそらくこれは浅草だけの現象ではないだろう。秋葉原や渋谷、六本木、新宿などの超繁華街、オフィス街とそうでない地域との差はものすごく大きい気がする。東京の顔とも言える浅草でさえこんな状態なのだから、ほかの地域は推して知るべし。位置情報サービスに携わる業界関係者は、このあたりの傾向をしっかり認識して市場開拓にいそしむべきだろう。いま位置情報サービスの一部ではチェーン店などとタイアップして電子割引券の配布などを実施しているが、せっかく入手したものを使おうにも、ソーシャルメディアの利用が盛んでない地域では使えるお店の側での対応さえままならないことも想定される(実際私も地元の日高屋でそういう体験をした)。

ネットでつながるバーチャルな出会いを提供するソーシャルメディアも、そのバックボーンを構築するためにはリアル空間における地道な活動の積み重ねが結局はものを言ってくる。位置情報サービスをモバイル利用のメインストリームへ持って行くにはそこが最も肝心だと、浅草という街が教えてくれているのである。





2011年8月2日火曜日

懐かしの都電に会いに行こう「東京の交通100年博」


きのう8月1日は、都電の前身である東京市電設立からちょうど100年という記念日だった。いま江戸東京博物館ではこれを記念して、特別展「東京の交通100年博」が開かれている。東京とが運営する都電、都バス、都営地下鉄の歴史を、貴重な品々をたどりながら追想していくという内容だ。先週、さっそく行ってきた。

「昭和」という意味でやはり最も注目すべきは都電関連の展示だ。明治以来の貴重な資料類も興味深いが、何と言っても感動ものなのが、都電最盛期だった昭和30年代当時使用された全路線41系統のヘッドプレートの壁面展示だ。50年も前の代物がよくこれだけ揃って残っていたものだと、愛好家には感謝の思いだ。また、都電歴代の車両をお家の家系図になぞらえて大河ドラマ風に解説した図などもあり、展示物への苦労がうかがえてこれまた面白い。

また会場内には昭和40年代の都電廃止当時のニュース映像が流されている。いま思えば美濃部都政の大失策だと思うのだが、それを億目もなくさらす都の姿勢は寛大と評価すべきなのだろうか。余談だが、ちょうど私がそのVTRを見ている横で眺めていた中学生の一団が「これ、鳩山?吉田茂?」などと話していたのが気になった。昭和は遠くなりにけりである。

一方、博物館外には現存最古の都電車両6000系と札幌市電の冬の名物・ささら電車もおかれている。6000系は12月に公開される「ALWAYS 三丁目の夕日」の撮影に使われた後とあって、オープンセットの一部とともに並べられ、見学者の郷愁を誘っている。面白いのは電車の中の広告類。うっかりすると昔からはられたのかと思わせるような凝った作りが何とも。若い人ならまず騙されるだろうなあ。こういう、映画の画面にはまず現れないであろう細部まで作り込んでいるのは、小道具さんがいかに楽しんで仕事をしていたかをうかがわせる。個人的にCG作り込みバリバリの「三丁目の夕日」は今ひとつ好きにはなれないが、こういう仕事を目の当たりにすると心を動かされてしまうものだ。

ほかにも、都営地下鉄浅草線、三田線(昔は1号線、6号線と呼んでいましたね)の開通にまつわる懐かしい物件なども鉄道ファンなら要チェック。特別展は9月上旬まで行われているようなので、お時間があれば是非。

2011年8月1日月曜日

ゴーカイジャーとカーレンジャー


放送当初から注目していた「海賊戦隊ゴーカイジャー」だが、このところの充実ぶりにはますます目を見張るものがある。過去の34戦隊に変幻自在の能力を持ち、でありながら地球を守らなければならない義理など全くない宇宙海賊が主人公というシリーズきっての型破りな設定が、脚本家、演出家の気持ちを一層かき立てているのだろう。

中でも秀逸だったのが、5月22日放送の第14話「いつも交通安全」。シリアスな戦いとコメディタッチの面白さが同居しているのが第1作以来の戦隊シリーズの伝統なのだが、ときにそのバランスを著しく崩す作品が登場することがある。その最右翼が「激走戦隊カーレンジャー」である。この回はカーレンジャーの元レッドレーサー=陣内恭介が登場し、ゴーカイジャーたちが追い求める各戦隊が持つ大いなる力を手渡すまでのストーリーだった。

だが、そこは別名“お笑い戦隊”とも言われるカーレンジャー、終始一貫のドタバタ喜劇が展開され、シュールな落ちで最後を締めるという内容だ。地球侵略を企てる宇宙帝国ザンギャックの女幹部・インサーン(声は17歳教教祖でおなじみの井上喜久子)がふとしたきっかけでモニター越しに発見した陣内恭介に一目惚れしてしまう。恭介とどうにかお近づきになりたいインサーンは日頃自分の追っかけをしていたという怪人・ジェラシットを呼び寄せ、恭介を生け捕りにするよう命じる。地球に降り立ったジェラシットは、戦隊としての力を失い子供たちに交通安全を教えて回る恭介を襲撃。そこへゴーカイジャーたちが割って入ってややこしい話になっていくという風に展開していく。全体的な流れの中でも細かいギャグネタがちりばめられ、見ている側に休息を与えない切れの良さ。特撮におけるコメディの理想がそこにはあった。

まあ、ここまで書いたところで、常識的に知られるヒーロー番組とは異質の感覚を持たれることだろう。それもそのはず、「カーレンジャー」のメイン脚本家である浦沢義雄氏がこの回の本を手がけているのだ。この人、もとは「ポワトリン」や「ペットントン」など女の子向けの不思議コメディシリーズを主に手がけてきた変わり種なのだ。例えるならウルトラシリーズの実相寺昭雄(この人は演出家だが)的な異端的天才。さらに「カーレンジャー」の演出を手がけた坂本太郎氏と、10数年の年輪を経た元レッドレーサー役・岸祐二の取り合わせにより、最高のコメディを作り上げられた。

「ゴーカイジャー」の全体のストーリーの中ではいわゆる“遊び”に相当するこのエピソードだが、こういうのがあることに作品の懐の深さが表される。それは「ウルトラマン」の「怪獣墓場」などに近いものがある。度が過ぎるドタバタは興ざめ以外のものではないが、5回に1回くらい挟まれるこういう“遊び”が、以外と見ている子供の頭の中に、長く刻まれるものなのだ。




2011年7月31日日曜日

六本木コンプレックス


きのう、ほぼ半年ぶりに六本木で飲んだ。場所はヒルズ。我ながらこれほど落ち着かないシチュエーションもないもんだ。あ、ちなみにその飲み会自体は楽しく且つ有意義だったのでそこの所誤解なきよう。

さはさりながら、同じ東京の、地下鉄でたった30分も離れていない街なのになぜこれほど居心地がよくないのだろう。人からも言われた。
「足立さんに六本木って一番似合わない組み合わせですよね」
ほめ言葉だと思った。

一つはバブルと六本木というキーワードが相性よすぎるためだろう。そこへのコンプレックスはぬぐい去ろうとも拭いきれない。いや、別に過去に何かあったから、恨みがあるからなんてことではない。自分で勝手に六本木の敷居を高くしているだけに過ぎない。これはなんなんだろう。自分のことだけに答えが出てこない。

では銀座は?と聞かれると六本木とは全く逆。長らく仕事場もしくはその近隣だったこともあるが、銀座には六本木にない何かがある、それを私自身が感じ取っているからだと思っている。その「何か」とは、なぜか住まいである浅草にはある気がするのだ。だから銀座に違和感はない。金銭的な敷居の高さでは銀座>六本木というのが世間相場だが、私の心理的土地勘では銀座の方が断然親近感があるのだ。

一つは「伝統」なのかも知れない。無論、六本木とてそんなに新しい街ってわけではない。東京オリンピックと前後して大きく変貌した一帯ではあるが、その反面で下町の匂いが息づいてる地域がいまもある。だが、やはりオリンピック後、というより80年代以降の突っ走り具合が前面に出てしまい、頂けないのだ。その感覚は渋谷にも当てはまる。

だが、考えてみればそういう悪しき先入観を私にもたらしてきたのはテレビや雑誌などの二次情報によるところが大きくそれらに毒されているのだろうと自戒する。古き江戸・東京を研究テーマにしているわが身の上としても、そろそろマスコミ中毒を治して、六本木のポジティブな側面を見出さねばならないと、今この記事を書きながら思うのである。



2011年7月30日土曜日

時代劇の終焉


「水戸黄門」がついに最終回を迎えるという。「サザエさん」「ドラえもん」と並び、“絶対に最終回はないはずの番組”の一角が崩れることになる。まさしく日本のテレビが一つの曲がり角を曲がっているのがいまと言えるだろう。

「水戸黄門」の終焉が意味するのはそれだけではない。見渡せば民放のレギュラー番組から時代劇が消滅することになる。現在地上波で見られる時代劇は、NHKの大河ドラマと土曜時代劇の枠のみ。あとは夕方のTBSの再放送枠くらい。テレビ東京の正月長編時代劇以外では、太秦とテレビ界は無縁の存在となるのである。

と、懐かし惜しんだところで、私もご老公が里見浩太朗になってからの「水戸黄門」はほとんど見ていなかったし、チャンバラごっこをやるような子供はもう40年前に絶滅している。打ち切りの理由は定かではないが、一般的な需要がなくなっているのは明確だろう。現代劇と比べて金もかかるし、広告収入の減少と地デジ対策による設備投資で財務が逼迫しているといわれる民放において、カネのかかる番組を切り捨てるのは極めて自然だ。

だが、例え1番組でもいいから、継続されることも文化の担い手の役目ではないかとも思う。一度切ってしまうと、それまでのノウハウは途切れ、次世代に引き継ぐのは極めてこんなになるからだ。時代劇の制作現場ではちょんまげを結う床山さんが一番偉いと言われているがその座さえ追われることになるのだ。ついでに言うと悪代官も悪徳商人もドラマの世界から消えてしまうのだ(リアルの世界にはいっぱいいるが)。

似たようなことは鉄道においてもある。SLを動かす技術が経年とともに消えようとしているのだ。石炭をくべるタイミングやブレーキのかけ方など、電車やディーゼルカーのものとは大きく違うテクニックを現場で知っている世代もほとんどが定年を過ぎている。イベント列車などでSLを運行している地区は少なくないが、手直しすれば100年近く前の車体がある一方で、人が持つ技術の伝達はかなり厳しい状態になっている。要するに、ソフトウエアの生命には時代的に限界があるのである。それを維持するにはそこに携わる人々の熱意それのみにかかっていると言っていいのだ。

もはや時代劇は珍しい存在だ。それ自体はもう仕方がない。でも、せめて愛好者の1人として、“見守る”という行為によって文化の継続を守っていきたいと思う。




2011年7月29日金曜日

小松左京を失ったということ


日本SF界の巨人・小松左京が星になった。ネットのニュースやテレビでは「SF作家の草分け」という肩書きが踊っているが、この人ほど作家の枠から逸脱している作家もいない。どこかの新聞が「文明評論家」と書いていたが、これが最も実情に近いだろう。でもそれでもいい足りていない。

「日本沈没」「首都消失」などパニック映画の原作者というのが小松に対する一般的な位置づけだろう。だが、70年代の科学系テレビ番組には彼が必ずといっていいほど登場し、底知れぬ知識と気さくな表現方法で難解な科学の仕組みや日本の未来像をかみ砕いて語ってくれた彼の存在は、この時代の日本を知的レベルにおいてグンと引き上げてくれた。小松左京を受け継いでくれる人間が1人でもいてくれたなら、いまの日本もこんな悲しい国に落ちぶれてはいなかっただろう。それくらい、小松左京はスケールが大きかった。

彼の仕事を引き継いでいるのは立花隆や荒俣宏あたりだろうか。でも小松にはこの2人にないエンターテイメントな感覚が備わっていた。その背景には、青年期に漫画を描いたり、漫才作家までやっていた遍歴がある。つまり小松の語りは紛れもなく面白かったのである。この未来を面白く語る力が、いまのどの評論家にも欠けているのである。いま若手作家や評論活動に従事する人々には、小松のようなわくわくする未来を語れる力を磨いて欲しいものである(無論、自戒も含め)。

人は死ぬとお星様になると言われる。ならば小松左京星なるものには、地球よりはるかに進んだ文明があり常に希望に満ちあふれた世界が広がっていることだろう。かなうことなら死ぬ目出に一度、そんな星へ行ってみたい。