2011年7月30日土曜日

時代劇の終焉


「水戸黄門」がついに最終回を迎えるという。「サザエさん」「ドラえもん」と並び、“絶対に最終回はないはずの番組”の一角が崩れることになる。まさしく日本のテレビが一つの曲がり角を曲がっているのがいまと言えるだろう。

「水戸黄門」の終焉が意味するのはそれだけではない。見渡せば民放のレギュラー番組から時代劇が消滅することになる。現在地上波で見られる時代劇は、NHKの大河ドラマと土曜時代劇の枠のみ。あとは夕方のTBSの再放送枠くらい。テレビ東京の正月長編時代劇以外では、太秦とテレビ界は無縁の存在となるのである。

と、懐かし惜しんだところで、私もご老公が里見浩太朗になってからの「水戸黄門」はほとんど見ていなかったし、チャンバラごっこをやるような子供はもう40年前に絶滅している。打ち切りの理由は定かではないが、一般的な需要がなくなっているのは明確だろう。現代劇と比べて金もかかるし、広告収入の減少と地デジ対策による設備投資で財務が逼迫しているといわれる民放において、カネのかかる番組を切り捨てるのは極めて自然だ。

だが、例え1番組でもいいから、継続されることも文化の担い手の役目ではないかとも思う。一度切ってしまうと、それまでのノウハウは途切れ、次世代に引き継ぐのは極めてこんなになるからだ。時代劇の制作現場ではちょんまげを結う床山さんが一番偉いと言われているがその座さえ追われることになるのだ。ついでに言うと悪代官も悪徳商人もドラマの世界から消えてしまうのだ(リアルの世界にはいっぱいいるが)。

似たようなことは鉄道においてもある。SLを動かす技術が経年とともに消えようとしているのだ。石炭をくべるタイミングやブレーキのかけ方など、電車やディーゼルカーのものとは大きく違うテクニックを現場で知っている世代もほとんどが定年を過ぎている。イベント列車などでSLを運行している地区は少なくないが、手直しすれば100年近く前の車体がある一方で、人が持つ技術の伝達はかなり厳しい状態になっている。要するに、ソフトウエアの生命には時代的に限界があるのである。それを維持するにはそこに携わる人々の熱意それのみにかかっていると言っていいのだ。

もはや時代劇は珍しい存在だ。それ自体はもう仕方がない。でも、せめて愛好者の1人として、“見守る”という行為によって文化の継続を守っていきたいと思う。




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