2011年8月9日火曜日

やっとスター・ウォーズを見た


先日このブログで「ちゃんとは見ていなかった」と書いた「スター・ウォーズ」の第1作をきのう、きっちりと見た。30年以上前の作品だが、なんというか言い訳というか、今この時期が初見だったのが返ってよかったというのが第一の感想である。

無論、自称オタクの私とて、スター・ウォーズのおおよその世界観は知っていた。客ターの位置づけも、大まかなストーリーの流れも、もちろん第1作だけでなくスター・ウォーズ・サーガ全体の成り立ちもほぼわかっていた。触れていなかったのは通しの物語だけ。もちろんそこが映画に置いて最も重要で、それに触れていないのはどんなに言い訳しても知ったかぶりの域を超えないわけだが。

でも、1970年代中頃に作った作品を今見て(その後大幅な手直しが成されているとはいえ)思い知れたのは、現代における未来の想像感が全く古さがないことだ。これは特撮、アニメを含めほかの宇宙SF作品ではほとんどができていない重要な点だ。

よく、我々の世代が子供の頃に想像した未来感というと、大都市のそこら中に透明のチューブが張り巡らされていてその中をエアカーやリニアモーターカーが行き交ったり、謎の原理で作動しているフォログラフのようなテレビとか、実際に21世紀を迎えた私たちにとってはもはやギャグの世界でしかない“昭和な未来”だった。だが、スター・ウォーズに描かれていた世界は「あと数百年もたてばこういう世界観は確かにあるかも知れない」という想像を、35年たってもなお抱かさせる説得力が確かにあった。いわば恒久的な未来感を、ジョージ・ルーカスは誰よりも早く描き切れていた、そこには本当に感心した。

もうひとつ、これは事前の二次的情報から想像できたことだが、ほとんど悲壮感と無縁の、老若問わず心の底から楽しめる娯楽映画を、SFという最も取っつきにくい分野で実現していることも、いまさら私が言うことでもないがすごい作品だと感じさせた。普通(主として邦画において)、これだけあれもこれもと詰め込んでしまうと、ファミレスのお子様ランチのようにその時点で駄作に成り下がってしまうものだ。そこをそうさせていないのは、チャンバラにせよカーチェースにせよ、それぞれを徹底して表現したことで、見る側を場面場面に引き込んだということなのだと思う。安い映画だとそこに手を抜いてしまうからダメなのだ(そこのB級感がいいというマニアもいるが)。

それと、スター・ウォーズには悪い意味での重さがないのがいいのだろう。ルークとアナキンの親子の葛藤の描き方、もしこれが日本の作品なら、ルークが母親の話を持ち出して「親父のせいで…」という感じの辛気くさい話に流れて行ってしまうことだろう。そこを相違しなかったのは民族的な違いかどうかはわからないが。

こういうSFを娯楽として35年も前にさらりと仕上げられたスター・ウォーズ。不朽の名作と伝えられる訳がようやく解った1日は収穫だった。


0 件のコメント:

コメントを投稿