2011年8月6日土曜日

タレントの時代、タレント不在の時代


芸能人には歌手、落語家、漫才師、最近ではグラビアアイドルなど様々な肩書きが存在するが、最もつかみ所がないのが“タレント”だ。最近は主に“お笑いタレント”を指す場合が多いが、その昔は“テレビタレント”“放送タレント”というカテゴリーがあった。いわゆるお笑い芸人ではないが、豊富な知識を背景に巧妙な喋り口で日常の笑いを引き出す、そんな知的さを漂わす“テレビの中の人”。それがタレントだった。Talent、直訳すれば「才能」。まさに才能あふれる知識人を呼ぶにふさわしい単語として誰かが発明したのだろう。

そんな放送タレントの先駆けが、昨日死去した前田武彦や、前東京都知事でもある故・青島幸男だった。黒柳徹子もその範疇だ。このあたりの名前を挙げれば、タレントとは何ぞやというイメージが何となくまとまってくるのではないか。イマドキの人で言うなら秋元康あたりも当てはまりそうだ。

テレビのバラエティ番組というと、最近では低俗かを嘆く声が多いが、テレビが熱かった1960~70年代のそれは、これら知的なタレントたちによって、笑いだけではなく細かな日常の知識をお茶の間の視聴者に振りまいていたのだった。先日インタビューした小松政夫さんは「コントだけじゃなく、歌があって、踊りがあってバラエティに富んでいるからバラエティ番組だったんですよ」と話していたが、これらのコンテツンを巧妙な喋りでつなぎ合わせる役を果たしていたのが司会業としてのタレントだったのだろう。マエタケさんもそうだが、そういう役割を放送作家が担っていたというのも、こうした番組構成を俯瞰すると至極もっともと言える。

いま、こうした番組の進行役はテレビ局所属のアナウンサーやしゃべくり系の芸人というケースがほとんどだ。一方で進行役のプロというような人が見当たらなくなってもいる。強いて挙げればみのもんたくらいか。アナウンサーの喋りには無論、目を見張る芸当を見出すこともあるが、放送上のガイドラインという枷もあって知識を広げる才能=タレントには欠けるものがある。お笑い出身の人もその点は微妙だ。家電芸人やらガンダム芸人などと称するまがい物タレントも最近ははびこっているが、オタクとタレントは似て非なるものである。

いま、ネットの発達によって知りたいことの答えが簡単に得られる時代になった。だからといって日本人全体がより知的になったのかというと、むしろ逆のように思えてならない。テレビ時代のタレントたちのように、知識面において国全体を引っ張るべき役目を担っているのは、αブロガーやソーシャルメディアを駆使したオピニオンリーダーということになるかも知れない。だが先駆者と比べてそれらの存在はまだまだ世間全般において薄い。今こそ、テレビ、ネットを超越したタレントの登場が待たれているのかも知れない。



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