2011年9月22日木曜日

半年で何も学べていなかった都心のサラリーマンたち


きょうもまた不謹慎承知の話を書く。いうまでもなく昨夜の台風のことだ。夕刻からごった返す都心のターミナル。豪雨の中何十キロの道のりを歩いた帰宅しようとするずぶ濡れのサラリーマンたち。まるで半年前のビデオテープを見ているかのよう。東京以外の人々はさぞせせら笑っていたことだろう。「こいつら何も学習してないじゃん」と。

3月の大地震の時と昨日の台風とでは違った点が一つある。事前から予測できたことだ。しかも予測ベタの気象庁にもかかわらず、今回の台風はご丁寧なまでに当初の見込みに従って都心に突進してきた。だが、その違いがほとんどの人々の行動に表れていなかったのは、予測を舐めていたか、予測の情報を把握すらしていなかったということだろう。

しかし、情報を把握していなかったとは言え、落ち着いて考えれば昨夜の顛末がいかにアホらしかったかと、帰宅難民の渦の中にいた人々は今ごろ痛切に感じているのではないか?そう「少し待てば何とかなったのに」と。

台風は夜9時前にはほぼピークを過ぎ、我が家のある浅草上空は風こそ強かったものの晴れた夜空が望めた。つまり、いつものように居酒屋でちょいといっぱいやっていれば、何事もなく帰宅の途につけたのである。まあ、多少の混雑はあっただろうが。

何かことが起きたとき、とっさの判断が命の分け目、とは先般の大震災の教訓ではあった。だが、落ち着いて見渡すことも学んでいたはずだ。地震が発生した日も、夜10時頃には地下鉄や私鉄は運転を再開していたのだから。待つべき時は待つ、動かざること山のごとし、古人はしっかりその言葉を伝えている。

なぜ昨夜ああなったのか、電鉄会社に責任を押しつけるのではなく、自分の行動、職場の状況をまず見渡して今一度分析見ることが本当の反省だろう。

2011年9月21日水曜日

なぜかわくわくする台風襲来


きょうは敢えて不謹慎なことを書く。ご不快と思われる方はご容赦を。何の話かって、今迫りつつある台風の話である。被害に遭われている方々にはお見舞いを申し上げるほかないが、台風がやってくるとなぜかわくわくしてしまう心理が働いてしまうのである。いわゆる怖いもの見たさなのだろう。

東京に住んでいる身としては、このわくわく感が裏切られることが実に多い。“観測史上最強”“超大型”“うん百万人に影響”などと気象庁の予報やニュースの見出しが出てケースに限って、いざ台風がやってくるとどういうわけか直撃を避けて海にそれてしまったり、実はほとんど雨が降らなかったりなどというのがほとんどだったりするのだ。本当にやばいと感じさせる台風の襲来なんて、5年に1度がいいところだろう。であるからこそちゃんと来襲する台風は貴重というかレアというか、そんなのだからわくわくするのかも知れない。

これはすごかった台風というので思い出すのは昭和54年にやってきた台風20号だ。ちょうど今の時期だったと記憶している。朝から強い雨が降る中、中学へ登校したのだが、3時間目が終わったところで担任教師から「今日は給食が出せないので今から帰れ」といわれた。早く終わってくれるのは嬉しいのだが、当然外は集中豪雨。氾濫する川などはない地域だが、大雨の中で帰宅を強制するって、何を考えているのか。中学から自宅まではおよそ2キロ。登校時に乗ってきた自転車は学校に置いたまま、歩いて帰ることになったのだが、強風でぶっ壊れた傘の骨が道ばたのあっちこっちに転がり、強風でなかなか前に進めない。結局家に到着するまでに1時間かかったと思うが、当然着ていた制服はぐしょぐしょ。しかも家にたどり着いた頃には雨はかなり弱まっていた。もう少し学校も落ち着いて先を読めよと思ったものだ。

きょうやってくるとされる台風15号は、この32年前の20号とコースといいタイミングといいとてもよく似ている。はたして私の期待に応えてくれるだろうか。

2011年9月16日金曜日

「電子書籍元年」の続きはどうなった?


シャープが昨日、電子書籍端末GALAPAGOSの販売を9月いっぱいで終了すると発表した。発表によると、GALAPAGOS向けにやって来た書籍・コンテンツ配信は各携帯キャリア経由で出しているGALAPAGOS携帯にて継続するとしていて、あくまでシャープ独自で展開しているWi-Fi対応機をやめるだけという言い方をしている。

シャープの独自端末は原則ネットを通した販売オンリーで、ヨドバシカメラなど一部の店舗で購入を取り次いできたものの、月に数台売れればいい方だったとかで、明らかに販売方法を読み誤った結果と言えそうだ。いや、この方法は私に言わせれば「ハナから売る気がなかった」としか映らない。シャープが「ここで買えますよ」と客を誘導した形跡がほとんど見受けられなかったのだから。アップルが成功したのだからうちも、と言う思いがあったのだろうか。

いずれにせよ、シャープが電子書籍事業でつまずいた、そのことを業界に知らしめたニュースと言うしかないだろう。あるいはこれを“朗報”と捉えた同業者もいる気がしてならない。ライバルが1つ消えた、というよりは「うちもこれで撤退しやすくなる」と思ったのではないか?

iPadが日本で発売されてから1年4カ月。「すわ電子書籍元年だ」と騒いだのがウソのように、最近の電子書籍を取り巻く動きは穏やかだ。業界内の連合、企画サークル作りの動きなどはたびたび伝わってくるが、具体的にこういうサービスが始まる、わーすげー!、なんて話は一切ない。だが、出版界における危機感だけはじわりじわりと広がっている。

おそらく向こう3年は、試行錯誤が突くのだろうと思う。規格・端末の乱立が電子書籍業界立ち上げにとってマイナスであることは関係者誰もが解っているはずで、どの方向にまとめていくかを模索しつつ、覇権を競って行くことだろう。だがその中での本命が見えてこないところが気になるところ。また、取次業者を中心とした出版界の古い体質がそのまま電子書籍の世界に移行しようとの動きがあるのもネガティブな要素だ。

そんな中で出てきたシャープの動き。下手なターニングポイントにだけは、なって欲しくないものだ。

2011年9月12日月曜日

この10年で学んだこと これから日本人が生かすべきこと


2001年9月11日夜、その時間私は通信社のデスクでネットのニュース配信の編集をしていた。そこへ飛び込んできたのは「ニューヨーク貿易センタービルで爆発。航空機が激突した模様」と言う一方。最初浮かんだのは「ユナボマーの話?まだ蒸し返してるの?」てなもんで、ショッキングというのではぜんぜんなかった。すると間髪入れずに、デスク横のテレビに、よく解らない光景が映し出された。晴天のニューヨーク、煙が上がる高層ビル。そこへ、旅客機が1機やたら低空飛行で近づいてきた。後ろを通り過ぎるのかと思ったらそのままビルに衝突。

「え?」っと驚くとほぼ同時に「これは故意だな」と冷静に似られている自分がいた。だが一方でその状況が何で起きているのか、にわかに把握できなかった。そうこうしている間に2機目の飛行機がビルに突っ込んだと言う情報が入ってきた。「え?2機?なななにそれ?」。さらに少したって、今度はペンタゴンに飛行機が落っこちたと言う情報が。もはや何が何やら。

以上がちょうど10年前の日本時間夜10時から11時半頃にかけての自分が体験したいわゆる「911」の流れだった。そのあと、次から次へと入ってきた記事の対応に追われ、とりあえずその日の業務から解放されたのは朝の4時だったか。

その時、大惨事が起きたという認識はあった。これは事件などではなく新世紀スタイルの戦争なのかも、と言うことも直感で覚えた。でも、後にアメリカ人たちが言うほどに「大きな傷」と言う感覚は私には感じられなかった。彼らの中には、日本の原爆投下に匹敵するようなショックと表現するものもいたが、レベルが違うと思った。原爆の被害者の数を彼らは分かってないのだろう。しかも原爆では60年以上過ぎた今でも後遺症に苦しんでいる人がいる。それと911ごときを比べないで欲しい、正直そう思った。そういう反応を見たせいか、「911」を誇張していないかと言う思いが私個人には今もある。

だが、今年、大震災を経験して、さらに原発事故を目の当たりにして、10年前にアメリカ人が味わったインプレッションを少し理解できたように思える。人間はある一定以上(それがどれくらいからかは分からないが)強烈な惨劇を体験することで、冷静さや理性は砂上の楼閣が如く崩れ去るのだと。余裕がなくなるのだ。

人間、余裕がなくなると、相手を思いやる気持ちがもてなくなる。異なった意見を理解する機能が失われる。自分の信じたこと以外信用できなくなる。そして攻撃的になる。

911の時、ブッシュ政権(当時)はすかさず中東へ戦争を仕掛け、アメリカ国民はこぞってこれを支持した。「報復は倍返し」を大多数が後押しした。そしてアメリカ国内に住む中東計の人々にまでその攻撃の手は及んだ。そんな国民感情の奥底には、911の体験が「世界で一番悲惨な体験をしたアメリカ国民」というゆがんだ感情が生じていたのではないだろうか。

一方、今、震災後の日本では反原発、脱原発論が渦巻いている。確かに原発のリスクは大きい。そのことを我々は思い知った。だが、3月11日以前までは間違いなく和れっわれは原発の恩恵を受けてきた。その過去をないがしろにした反原発論に私は奇妙さを覚える。だが、そうした違和感を語ろうとするとたちまち攻撃的な言葉が飛んでくる。ネット上での反応は特に敏感だ。これも、自分が信じ込んだこと以外は一切認めようとしない、寛容さを失った人間の感情がなせる技ではないかと思う。

いま、アメリカでは政権が代わり、10年前の事件に端を発するナショナリズムの変化を反省する意見が聞かれるようになった。それは一つの時の魔法の効果と言えるだろう。東日本大震災からはまだたかだか半年。高ぶったままの国民感情の中で早まった判断だけは避けたい。それが911から10年で学んだ教訓ではないだろうか。

2011年9月11日日曜日

担当記者なら大臣のうっかり発言はその場で注意してやれよ


発足から10日足らずの野田内閣だが、早くも脱落者が出た。鉢呂経産相が舌禍の責任を取っての辞職、「またか」という思いだ。こんなことばかりやっていていいのかと。

政治家とは元来、人に話すのが仕事だ。多くの言葉を使う間に、うっかり名言葉を使ってしまうことも当然ある。記者が原稿を書き間違えるのと同じレベルの話だ。政治家のうっかり発言をいちいち取り上げて責任どうこうを振りかざす記者は、原稿を書き損じたことがないのだろうか。

鉢呂氏が口にした“舌禍”と言われる発言は2点。福島第1原発周辺を「死の街」と言ったことと、記者を囲んだうちわの懇談で「放射能が付いたぞ」(正確な言葉は不明)などと悪ふざけっぽくじゃれた件。

まず、「死の街」のどこが問題なのか、全く解せない。文字通り人っ子一人いなくなった街を、ゴーストタウンと言ってなぜいけないか?じゃあ、地方都市の「シャッター通り」よろしく「シャッターの街」ならOKだったのか?大臣が率直な感想を述べてことをなぜ記者たちは問題視するのか?その場にいた記者全員にアンケートしてみたいところだ。

もう一つ、これが致命的と言われる「放射能が付いたぞ」発言。やりとりを聞くに、子供のエンガチョ遊びだ。これをうちわの記者たちの前でしゃべったのだとか。きっと記者の中には「カギ飲んだ」と応じたヤツがいたに違いない。私だったらダブルエンガチョで対抗するが。

確かにこれは「死の街」と違い、不謹慎と言わざるを得ない。でも、ちょっと待て。大臣の前にいたのは記者ばかりなら、一人くらい「大臣、その言い方はまずいですよ」といなしたヤツがいてもいいのではないか。その一言さえあれば、大臣の首は繋がっていたのではなかったか?もしかしてこれって、記者連中による大臣いじめ?記者連中にとって鉢呂氏こそがエンガチョだったのか?

こんなことばかり繰り返して、ころころ大臣の首をすげ替えてばかりいるから、日本の政治から“使える人材”がいなくなるのだ。大臣だって人間、政治家だって人間。いくら選挙で民から選ばれた人間とは言っても、ノーミスノーリスクの完璧人間なんていない。うっかり発言があったらそれを浄化する方法は常識レベルでいくらでもある。何より、そんな些末なことなど構っていられない問題が、この国には山積していることは国民の誰もが知っている。新聞記者連中も自分の手柄ばかり追わず、もっと大局眼と懐の深さを養うべきだ。

2011年9月10日土曜日

本日発売「昭和40年男」最新号は「オレたちの宇宙」!

デジタルネイティブとかソーシャルネイティブとか、生まれながらにして最先端のカルチャーに囲まれ育った世代をそれ以前の人間と分かる言葉が流行っているが、それを言うなら我々昭和40年前後生まれの人間は差し詰め、テレビジョン・ネイティブ、そしてスペース・ネイティブと呼ばれて然るべきかも知れない。テレビと宇宙。どちらも戦後から高度成長期に我々日本人が夢を投影した媒体といっていいだろう。その夢を映像として日常的に目にしながら育った我々にとって、宇宙とは何か。そんな思いを込めた『昭和40年男』10月号が本日発売の運びとなった。通常なら奇数月の11日発売だが、明日は日曜日と言うことで1日早いリリースとなっているのでご注意を(早く買わないと売り切れちゃうからね)。

今回私が書いたのは米ソ競争から始まる宇宙開発の歴史と、我々の宇宙観を育てたSF作品の名作解説。正直、もう少し突っ込みたい部分もあったのだが、それでも十分満足行く内容になったと自負している。中には「これって40年男世代?」と思われる作品も取り上げているが、何せSFというのは他の分野以上に人を選ぶところがある。見ているヤツは徹底的に見てきたし、そうでない人は本当に舐める程度、ヤマトのヤの字くらいしか分からんということも少なくない。なかなか難しいところだが、興味を持っている方々に向けて答えた方がより内容の厚いものになると、少しマニアックなものも加えた(だってSFオタクにとって「トップをねらえ!」を外すわけにはいかないもんね)。

手前みそだけでなく、はやぶさプロジェクトがこれほど40年男とのかかわりが強かったことを改めて知らされたり、宇宙の研究はどこまで進んでいるかが我々世代ならではの切り口で解説していたりと、今巷にあふれている宇宙関連本とはひと味もふた味も違う内容になっている。

ほかにも、新婚ほやほやのカトちゃんへのインタビューなど旬な和題ともリンクしているなど、ただ懐かしいだけの昭和雑誌ではないツボもしっかり押さえられている。常連さんはもちろん、「え?オレ40年男じゃぜんぜんないよ」という人でもまずは書店で手にとって頂きたい。もちろん、電子版も同時リリースされているので、iPadやタブレットPCを常時お使いの方はそちらをご利用になることをオススメする。

電子版はこちらへ↓
http://www.zasshi-online.com/Magazine/ProductDetail/SalesDate?code=2011-09-10&page=1&dcode=tandem_style_40s8110910&dpage=1

2011年9月4日日曜日

黒い鳥人、ゴーカイに甦る


番組も折り返しに差しかかった「海賊戦隊ゴーカイジャー」、ここに来て一段と脂がのってきた感じだ。予定の映画2本も充実した内容の中で消化し、演じている若い役者も演出も脚本も、ノリノリの様子が映像から伝わってきている。そしてそのいいリズムに引き寄せられたのか、番組の売りである過去戦隊からのゲスト戦士も我々長年のファンの期待に見事に応えてくれている。本日(9月4日)放送の回はその頂点と言えた(このあとも期待は高まるが)。

きょうの放送は鳥人戦隊ジェットマンの大いなる力をゴーカイジャーたちが手に入れるというお話。

このジェットマン、1991年放送の、戦隊シリーズ15作目に当たる作品だ。戦隊ものの主要対象年齢は5歳から10歳といったところだが、このジェットマンはいささか事情が異なる。90年代初頭といえば、バブルの絶頂期。テレビ界ではハイソへのあこがれを絵に描いたトレンディドラマが全盛だった。その流行りを戦隊ものも取り入れたというわけだ。というのも、10作を超えた戦隊ものもこの頃、マンネリ化が顕著となり、シリーズ終了も検討されたといわれている。ならば思いきったものをと企画されたのがジェットマンだった。対象年齢を少し上げ、ヒーロー物では禁じ手とされていたメンバー間の恋愛模様を真正面から採り入れたジェットマンは、まさに戦隊シリーズの曲がり角となった。

だがこのジェットマンには、シリーズ切っての問題児でもあった。最終回、最後の最後のシーンでメンバーの一人、ブラックコンドルこと結城凱が暴漢に刺されて死んでしまうのである。敵の怪人とかではなく、ただのその辺のチンピラにである。子供番組かよ。

この一件が実は、今年のゴーカイジャーを企画する際、最大のネックになったそうだ。一人死んでいるヤツがいるんじゃ過去の戦隊全員集合は成立しないじゃないか、と。結局あとで折り合いを付ければいいという判断になったのだろうが、その折り合いを付けなければならない回がここにめぐってきたというわけだ。そこでスタッフが白羽の矢を当てたのが、当時の脚本を書いた井上敏樹氏だった。平成ライダーシリーズなどで数々の問題作を繰りだしてきた井上氏は、自らのペンで手を下した結城凱を弔うかのような脚本をぶつけてきた。

で、今回のゲスト戦隊戦士は結城凱・若松俊秀の登場となった。あれから20年、当時ええかっこしいだった凱は真にカッコイイ大人となって帰ってきた。

でも、なぜ死んだはずの凱がゴーカイジャーたちの前に現れたのか。と考えながら見ていると、ゴーカイジャー唯一の地球人で戦隊オタクのゴーカイシルバーだけ、凱の姿が見えない。見えないどころかその存在すら認識できない。はてさてその理由は…。そして凱がゴーカイジャーたちの前に現れた理由は?ほかのジェットマンたちは?もう小憎らしいばかりの演出が次から次へと画面に現れる。もう、長らく戦隊ファンやって来て本当によかった。そう我らに思わせる、井上敏樹らしからぬファンサービス満点の25分だった(ネタバレ防止のため詳細は自重)。

今月はこのあと「爆竜戦隊アバレンジャー」「超獣戦隊ライブマン」「超力戦隊オーレンジャー」のエピソードが続くとのこと。楽しみすぎる秋の日曜日だ。


2011年9月2日金曜日

大河ファンを置き去りにした「江」ができなかった事


来年の大河ドラマが楽しみと先日のブログで書いたが、その前に今年の大河「江~姫たちの戦国」について語っておかざるを得ないだろう。

いまさら、といってはなんだが、「江」は残念な事が多すぎた。まだ終わってはいないが、現在の物語のペースを考えても、もっと面白くする方法があったはずなのにというのが歴史好きや昔からの大河ファンの言い分ではないかと思う。それでも視聴率がそこそことれている(ここ数回は下がっているようだが)というのが、このドラマの扱いを複雑にさせている。

「江」の脚本は田渕久美子氏。知っての通り2008年、社会現象を起こしたの大河「篤姫」も担当した人だ。視聴率も近年では最高レベルをマークし幅広い層から支持を得た。その実績を踏まえ、二匹目のドジョウを狙ったのが「江」だった。ここまでの流れは特に間違っていなかったと思う。

だが、NHKサイドは今回この実績の肝心なところを読み違えたという気がしてならない。「篤姫」のヒットでよく言われたのは、本来大河ドラマを見なかった層が見て楽しめる内容だったという指摘だ。大河としては少し違和感のあるBGMをふんだんに取り入れたり、史実を踏まえつつも大胆な解釈で既成概念を崩したスタイルは、オールドファンからの批判は少なくなかったものの、イマドキの時代劇はこれでもOKというスタンスは今のドラマ視聴者の主流とマッチした。

問題は、NHKがこうした指摘を踏まえて「オールドファンはさておき」とする方法に味を占めてしまった節があるのである。その流れは「篤姫」に続く「天地人」においても垣間見られていた。案の定「天地人」は名子役の発掘以外さしたる実績も残せず、多くの大河ファンから悪評を浴びた。「オールドファンはさておき」に媚びた結果生まれたのは、主人公を本来出会うはずのない当代の著名人と無理矢理にも鉢合わせようとする“ミーハー脚本”だった。まだ少年のはずの直江兼続を織田信長と会話させたり、軍議の場にたかが小娘の江がひょこひょこ首を突っ込んだりする。視聴者以前に脚本家自身がそうやって遊んでみたくて仕方がない、ミーハー精神が表に出てしまっているのである。そういうのは「信長の野望」や「戦国BASARA」に任せておけばいいのに。

この手のトンデモ歴史的展開が頻発するのは、脚本家のミーハー化と同時にアイデアの貧困さを露呈していることに、脚本家本人は気付くべきである。

江にしても直江兼続にしても歴史の本流からすれば脇役である。ゆえに、信長や秀吉、あるいは義経、龍馬など王道を歩いた人物とは違い行動範囲の制約があるはずである。地方大名の家老がひょこひょこ中央政治に首を突っ込むのはおかしいのである。そういうのを押さえてこそ、ここぞという場面での中央とのかかわりがより面白くクローズアップされるはずなのである。一方で、地方大名の話ならその人物でしかあり得ないエピソードが人生の時間の分だけあるはずで、それを掘り起こして話を広げるだけでドラマの個性は十分出せる。その行為を怠ってしまっているために、何かと言うと信長だの秀吉だのと飛び道具に頼った陳腐な話にとどまってしまうのである。

今も名作と語り継がれている「独眼竜政宗」(1987年)は、この主人公でなければ描けない独自エピソードをたんまり盛り込んだ事が作品に厚みを持たせたのである。また、まさにここという場面で政宗と秀吉が対面するという演出も、それまで引っ張りに引っ張って両者を遠ざけていた巧妙な筋書きが仕組まれていてこそ生きたのである。この撮影をした当時、政宗演じる20代の渡辺謙は秀吉演じる大俳優・勝新太郎とそのシーンに入るまで一切顔を合わせなかったという。このような役者の行動は、ミーハー脚本では絶対に生まれる事はない。

江は歴史の脇役と書いたが、それでも彼女は本流を行く人物の多くと様々な形でリンクしているのは確かだ。それゆえミーハーになられてしまうリスクをはらんでいるのだが、だからこそ、主人公の腰をじっくり据えさせ、ブレのない物語を描いて欲しかった。多少のミーハーは許してもいいが、それがメインディッシュになってはまずいのだ。

あるいは脚本家は、江を戦国時代のナビゲーター、もしくはタイムスクープハンターのようなインタビュアーに仕立てようと考えたのかも知れない。だが江はその時代を生きたれっきとした実在の人物である。その人格をもっと正面から見つめ、彼女の生きた道をより深く掘り下げる物語を描いて欲しかった。それができてこそ名脚本家なのだ。