2011年9月2日金曜日

大河ファンを置き去りにした「江」ができなかった事


来年の大河ドラマが楽しみと先日のブログで書いたが、その前に今年の大河「江~姫たちの戦国」について語っておかざるを得ないだろう。

いまさら、といってはなんだが、「江」は残念な事が多すぎた。まだ終わってはいないが、現在の物語のペースを考えても、もっと面白くする方法があったはずなのにというのが歴史好きや昔からの大河ファンの言い分ではないかと思う。それでも視聴率がそこそことれている(ここ数回は下がっているようだが)というのが、このドラマの扱いを複雑にさせている。

「江」の脚本は田渕久美子氏。知っての通り2008年、社会現象を起こしたの大河「篤姫」も担当した人だ。視聴率も近年では最高レベルをマークし幅広い層から支持を得た。その実績を踏まえ、二匹目のドジョウを狙ったのが「江」だった。ここまでの流れは特に間違っていなかったと思う。

だが、NHKサイドは今回この実績の肝心なところを読み違えたという気がしてならない。「篤姫」のヒットでよく言われたのは、本来大河ドラマを見なかった層が見て楽しめる内容だったという指摘だ。大河としては少し違和感のあるBGMをふんだんに取り入れたり、史実を踏まえつつも大胆な解釈で既成概念を崩したスタイルは、オールドファンからの批判は少なくなかったものの、イマドキの時代劇はこれでもOKというスタンスは今のドラマ視聴者の主流とマッチした。

問題は、NHKがこうした指摘を踏まえて「オールドファンはさておき」とする方法に味を占めてしまった節があるのである。その流れは「篤姫」に続く「天地人」においても垣間見られていた。案の定「天地人」は名子役の発掘以外さしたる実績も残せず、多くの大河ファンから悪評を浴びた。「オールドファンはさておき」に媚びた結果生まれたのは、主人公を本来出会うはずのない当代の著名人と無理矢理にも鉢合わせようとする“ミーハー脚本”だった。まだ少年のはずの直江兼続を織田信長と会話させたり、軍議の場にたかが小娘の江がひょこひょこ首を突っ込んだりする。視聴者以前に脚本家自身がそうやって遊んでみたくて仕方がない、ミーハー精神が表に出てしまっているのである。そういうのは「信長の野望」や「戦国BASARA」に任せておけばいいのに。

この手のトンデモ歴史的展開が頻発するのは、脚本家のミーハー化と同時にアイデアの貧困さを露呈していることに、脚本家本人は気付くべきである。

江にしても直江兼続にしても歴史の本流からすれば脇役である。ゆえに、信長や秀吉、あるいは義経、龍馬など王道を歩いた人物とは違い行動範囲の制約があるはずである。地方大名の家老がひょこひょこ中央政治に首を突っ込むのはおかしいのである。そういうのを押さえてこそ、ここぞという場面での中央とのかかわりがより面白くクローズアップされるはずなのである。一方で、地方大名の話ならその人物でしかあり得ないエピソードが人生の時間の分だけあるはずで、それを掘り起こして話を広げるだけでドラマの個性は十分出せる。その行為を怠ってしまっているために、何かと言うと信長だの秀吉だのと飛び道具に頼った陳腐な話にとどまってしまうのである。

今も名作と語り継がれている「独眼竜政宗」(1987年)は、この主人公でなければ描けない独自エピソードをたんまり盛り込んだ事が作品に厚みを持たせたのである。また、まさにここという場面で政宗と秀吉が対面するという演出も、それまで引っ張りに引っ張って両者を遠ざけていた巧妙な筋書きが仕組まれていてこそ生きたのである。この撮影をした当時、政宗演じる20代の渡辺謙は秀吉演じる大俳優・勝新太郎とそのシーンに入るまで一切顔を合わせなかったという。このような役者の行動は、ミーハー脚本では絶対に生まれる事はない。

江は歴史の脇役と書いたが、それでも彼女は本流を行く人物の多くと様々な形でリンクしているのは確かだ。それゆえミーハーになられてしまうリスクをはらんでいるのだが、だからこそ、主人公の腰をじっくり据えさせ、ブレのない物語を描いて欲しかった。多少のミーハーは許してもいいが、それがメインディッシュになってはまずいのだ。

あるいは脚本家は、江を戦国時代のナビゲーター、もしくはタイムスクープハンターのようなインタビュアーに仕立てようと考えたのかも知れない。だが江はその時代を生きたれっきとした実在の人物である。その人格をもっと正面から見つめ、彼女の生きた道をより深く掘り下げる物語を描いて欲しかった。それができてこそ名脚本家なのだ。

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