2011年7月31日日曜日

六本木コンプレックス


きのう、ほぼ半年ぶりに六本木で飲んだ。場所はヒルズ。我ながらこれほど落ち着かないシチュエーションもないもんだ。あ、ちなみにその飲み会自体は楽しく且つ有意義だったのでそこの所誤解なきよう。

さはさりながら、同じ東京の、地下鉄でたった30分も離れていない街なのになぜこれほど居心地がよくないのだろう。人からも言われた。
「足立さんに六本木って一番似合わない組み合わせですよね」
ほめ言葉だと思った。

一つはバブルと六本木というキーワードが相性よすぎるためだろう。そこへのコンプレックスはぬぐい去ろうとも拭いきれない。いや、別に過去に何かあったから、恨みがあるからなんてことではない。自分で勝手に六本木の敷居を高くしているだけに過ぎない。これはなんなんだろう。自分のことだけに答えが出てこない。

では銀座は?と聞かれると六本木とは全く逆。長らく仕事場もしくはその近隣だったこともあるが、銀座には六本木にない何かがある、それを私自身が感じ取っているからだと思っている。その「何か」とは、なぜか住まいである浅草にはある気がするのだ。だから銀座に違和感はない。金銭的な敷居の高さでは銀座>六本木というのが世間相場だが、私の心理的土地勘では銀座の方が断然親近感があるのだ。

一つは「伝統」なのかも知れない。無論、六本木とてそんなに新しい街ってわけではない。東京オリンピックと前後して大きく変貌した一帯ではあるが、その反面で下町の匂いが息づいてる地域がいまもある。だが、やはりオリンピック後、というより80年代以降の突っ走り具合が前面に出てしまい、頂けないのだ。その感覚は渋谷にも当てはまる。

だが、考えてみればそういう悪しき先入観を私にもたらしてきたのはテレビや雑誌などの二次情報によるところが大きくそれらに毒されているのだろうと自戒する。古き江戸・東京を研究テーマにしているわが身の上としても、そろそろマスコミ中毒を治して、六本木のポジティブな側面を見出さねばならないと、今この記事を書きながら思うのである。



2011年7月30日土曜日

時代劇の終焉


「水戸黄門」がついに最終回を迎えるという。「サザエさん」「ドラえもん」と並び、“絶対に最終回はないはずの番組”の一角が崩れることになる。まさしく日本のテレビが一つの曲がり角を曲がっているのがいまと言えるだろう。

「水戸黄門」の終焉が意味するのはそれだけではない。見渡せば民放のレギュラー番組から時代劇が消滅することになる。現在地上波で見られる時代劇は、NHKの大河ドラマと土曜時代劇の枠のみ。あとは夕方のTBSの再放送枠くらい。テレビ東京の正月長編時代劇以外では、太秦とテレビ界は無縁の存在となるのである。

と、懐かし惜しんだところで、私もご老公が里見浩太朗になってからの「水戸黄門」はほとんど見ていなかったし、チャンバラごっこをやるような子供はもう40年前に絶滅している。打ち切りの理由は定かではないが、一般的な需要がなくなっているのは明確だろう。現代劇と比べて金もかかるし、広告収入の減少と地デジ対策による設備投資で財務が逼迫しているといわれる民放において、カネのかかる番組を切り捨てるのは極めて自然だ。

だが、例え1番組でもいいから、継続されることも文化の担い手の役目ではないかとも思う。一度切ってしまうと、それまでのノウハウは途切れ、次世代に引き継ぐのは極めてこんなになるからだ。時代劇の制作現場ではちょんまげを結う床山さんが一番偉いと言われているがその座さえ追われることになるのだ。ついでに言うと悪代官も悪徳商人もドラマの世界から消えてしまうのだ(リアルの世界にはいっぱいいるが)。

似たようなことは鉄道においてもある。SLを動かす技術が経年とともに消えようとしているのだ。石炭をくべるタイミングやブレーキのかけ方など、電車やディーゼルカーのものとは大きく違うテクニックを現場で知っている世代もほとんどが定年を過ぎている。イベント列車などでSLを運行している地区は少なくないが、手直しすれば100年近く前の車体がある一方で、人が持つ技術の伝達はかなり厳しい状態になっている。要するに、ソフトウエアの生命には時代的に限界があるのである。それを維持するにはそこに携わる人々の熱意それのみにかかっていると言っていいのだ。

もはや時代劇は珍しい存在だ。それ自体はもう仕方がない。でも、せめて愛好者の1人として、“見守る”という行為によって文化の継続を守っていきたいと思う。




2011年7月29日金曜日

小松左京を失ったということ


日本SF界の巨人・小松左京が星になった。ネットのニュースやテレビでは「SF作家の草分け」という肩書きが踊っているが、この人ほど作家の枠から逸脱している作家もいない。どこかの新聞が「文明評論家」と書いていたが、これが最も実情に近いだろう。でもそれでもいい足りていない。

「日本沈没」「首都消失」などパニック映画の原作者というのが小松に対する一般的な位置づけだろう。だが、70年代の科学系テレビ番組には彼が必ずといっていいほど登場し、底知れぬ知識と気さくな表現方法で難解な科学の仕組みや日本の未来像をかみ砕いて語ってくれた彼の存在は、この時代の日本を知的レベルにおいてグンと引き上げてくれた。小松左京を受け継いでくれる人間が1人でもいてくれたなら、いまの日本もこんな悲しい国に落ちぶれてはいなかっただろう。それくらい、小松左京はスケールが大きかった。

彼の仕事を引き継いでいるのは立花隆や荒俣宏あたりだろうか。でも小松にはこの2人にないエンターテイメントな感覚が備わっていた。その背景には、青年期に漫画を描いたり、漫才作家までやっていた遍歴がある。つまり小松の語りは紛れもなく面白かったのである。この未来を面白く語る力が、いまのどの評論家にも欠けているのである。いま若手作家や評論活動に従事する人々には、小松のようなわくわくする未来を語れる力を磨いて欲しいものである(無論、自戒も含め)。

人は死ぬとお星様になると言われる。ならば小松左京星なるものには、地球よりはるかに進んだ文明があり常に希望に満ちあふれた世界が広がっていることだろう。かなうことなら死ぬ目出に一度、そんな星へ行ってみたい。