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2012年2月25日土曜日

昭和40年の小原糸子に学ぶ


放送も残り1カ月となり、どんどん面白くなってきているNHKの朝ドラ「カーネ
ーション」だが、きょう2月25日の放送分はついに我々が生まれた昭和40年、
41年に差しかかった。そこでヒロイン・糸子が言い切ったセリフは胸に刺さっ
た。

「時代はがらっと変わった。女はこれからどんどん足を出すようになる。お嫁
に行かれなくなるなんて関係ない。いや、むしろ行かんでもいい世の中にな
る」

昭和40年、五輪を目指してのいけいけどんどんはとりあえず終わり、五輪と引
き替えにびゅーっと吹いてきた世界からの風が瞬く間に日本のファッション
を、生活文化を変えていった。もちろんその影で“いけいけどんどん”のツケ
を払わされる時代にも入っていくのだが、ウルトラマンの体のように世界は色
を帯び、新たな主張をし始めた。

“強い日本”が作られていったのは、そういう10年間の空気だったんだと思
う。その風土で育った我々こそ、今一踏ん張りして“強い日本”に気合いを入
れなければならない。

2011年8月31日水曜日

セシウムさん事件とひらひらのカーテン


今月4日に起きたいわゆる「セシウムさん」事件について、東海テレビはこのほど事態の経過を検証した番組を放送し、ネット上にも公表した。合わせて関係者の処分も発表した。問題の放送の動画と、今回明らかにされた局内のやりとりを見て、メデイアに携わる人間の一人としていろいろ考えた。
http://news.nicovideo.jp/watch/nw107117

このところ、Twitterが広く浸透した一方で多数の“事故”が発生している。いわば“ソーシャル失言”が招く炎上事件だ。某俳優のいわゆる韓流番組ごり押し批判発言などは典型だが、芸能人やメディア関係者だけでなく、一般人の発言が大事につながるケースも少なくない。それは、自動車が出回ったばかりの頃に交通事故が相次いだというのに似たものだと、私は捉えている。ソーシャルメディアも、こうした事故を経験する事で、何をしてはいけないのかという学習を重ねて、あるべき方向にまとまっていくのだろうと楽観視しているところだ。

例の「セシウムさん」テロップを作ってしまった担当者の心理も、このソーシャル失言をおかしてしまう人間に近い心理があったのだろうと思う。そして両者に共通しているのは、メディア制作の内側と、視聴者もしくはフォロアーにさらされる場を隔てる仕切りが、カーテン1枚ほどの厚みしかない事を忘れてしまっていたという事ではないかと思う。

私がいた(今もいるが)記事を書いて世の読者に読んでもらう仕事では、原稿が私の手元を離れてから読者の前に置かれるまでにいくつものフィルターを通される事になる。報道機関の例でいうと、所属部のデスクの目を通り、赤筆(校正担当)の目を通り、もう一度別のデスクの目でチェックされてる。さらに整理部のチェックを経て紙面に掲載される。その間に文章の整理や語句の訂正が施されていく。もちろん最初の執筆者でないと事実関係の正否が分からないことは多く、これらのフィルターでも見抜けないエラーはある。だが、どの部署もいるのは社会人の大人であり、セシウムさん的なバカな文言がそのまま外に出る事はまずない。

だが、このフィルターがどんどん薄くなっている事態が、悲しいかなメディア業界全般において起こっている。中間チェック部署は生産性が低いと判断されているのか、人員はどんどん縮小されている。またワープロの普及に伴って感じの誤植が多くなっている事もあって、非常識な誤字テロップが堂々と画面に登場したり、新聞の見出しに現れる事が多くなっている。いわば、観衆から見られては恥ずかしい楽屋とステージの間仕切りが、板の壁からちらちらとのぞき見られるカーテンくらいの薄さになってきているのである。セシウムさんテロップがスイッチャーのうっかりミスで画面に映ってしまったのは、まさにカーテンがちらっとめくれた瞬間だったのである。

そういう、カーテンがめくり上がる危険性は放送を送る現場にいる人間なら常に頭に入れておかなければならないイロハのイ。まして人員が少ない地方キー局の現場で、間違い防止フィルターが薄い事は誰もが身にしみて分かっていたはず。おそらく、例のテロップを作った担当者は、その意識が飛んでいたのだろう。人員の手薄も、慣れてしまえば感覚は麻痺してしまうもの。そうした悪しき条件が重なって、不意にめくれたカーテンの向こうに、放送局全体を危険にさらす放射性物質のようなものが露わにされてしまったというのが、事件の真相だろう。

こうして考えてみれば、くだんのトラブルがどのテレビ局、どのメディアにおいても起こるリスクを秘めていることがお分かりいただけると思う。その意味で私も含め、大いに考えなければならない一件と言えた。

さらにいえば、これはメディア業界に限定される問題ではない。先に指摘した通り、ソーシャルメディアが普及し、誰もが社会に向けて考えを述べられる状況が生まれた事で、ひらひらのカーテンはすべての人間の生活の中で意識されなければならなくなっているのである。以前なら居酒屋での酔っ払いの戯言で済まされた与太話も、それをそのまま字にして不特定多数の眼前に曝せば、めぐりめぐって戯れ言の中の人間に届き、強烈なしっぺ返しに見舞われることを知っておく必要がある。それは新たな文明の利器を得た人類に与えられた大きな代償と心得ておくべきだろう。

2011年8月24日水曜日

紳助が何をしたというのか


昨日の島田紳助芸能界から引退というニュースは少しビックリした。だが反面、世間が騒ぐほどのインパクトは受けなかった。一つは、最近紳助が出ているバラエティ番組を全く見ていなかったことがあると思う。もう一つは、かつて上岡龍太郎があっさり芸能界から足を洗った件が頭に浮かんで、それに続くだけのことなのか、と思えたことがある。

とはいえ、かつて漫才ブームの頃の紳助竜介の芸風は好きだったし、「サンデープロジェクト」のキャスターなどでタレント生を発揮していた姿は非常に好感を持っていた。政治家になるならないかはともかく、たけしやさんまとは一線を画した知的さを帯びたキャラクターは先行きに期待を持っていたこともある。それが醒めたのは例の暴力沙汰があった頃からだろうか。だが、失礼だがそう多くな損失、という感じも個人的にはない。

そんな紳助の引退表明だが、個人的には違和感を持った。特にニュースでのおきまりなセリフには強い反感をおぼえた。それは、相撲と比較するくだりである。大相撲が裏社会とつながっていた問題で大きかったのは、そのことが取り組みそのものにインチキが及んでいた点だった。

これを紳助の芸能活動に照らし合わせた場合、特に彼と付き合いがあったとされる人物が番組制作に介入するとか、視聴率を不当につり上げるとか、ギャラに関して口を挟むといったことは特に明らかになっていない(今後そんな話が出てくるかは判らないが)。少なくともこの会見があるなしにかかわらず、彼が出ていた番組の視聴者の信頼を損なう行為は一切認められていない。モラルに関して指摘する声は確かにあるが、紳助本人がモラルに這うする行為を視聴者の前でやったという事実はない。

彼の言葉によれば、自分が苦境に陥ったときに(右翼団体からの嫌がらせのようだが)丸く収めてもらったという、その手段がまずかったということだが、本人がかかる関係をコントロールしている限りにおいて、紳助の落ち度は認められないのである。いってみれば島田紳助は犠牲者と言っていいと思う。芸能界の不条理さにおいての犠牲者という意味である。

芸能界と裏社会のつながりは、長い長い歴史がある。さかのぼれば江戸時代の歌舞伎の初期あたりからということになるのだろうか。そんなことは日本の常識だ。テレビを見ている誰もが知っている。その関係を断ち切る努力は大いに必要ではあるが、簡単に断ち切れないこともまた誰もが解っている。それが解っているというのに、一つ関係が表に出た人物を腐ったミカンのようにつまみ出す。これが奇妙なことであることはテレビ業界を含め誰もが解っているはずだ。彼が出演していた番組のスタッフや共演者は視聴者以上に悔しくて仕方がないはずだ。いや、もちろん一番悔しがっているのは紳助本人だろうが。

一度引退を口にしてしまった以上、簡単に元の鞘に収まることはないだろう。だが、タレント・島田紳助は昨日付で死んだとしても、豊富なタレントを持った現在55歳の長谷川公彦という人物は生き続ける。この逸材をそのまま放置しておくほど世間に余裕はない。吉本興業との間でどのような誓約書が交わされたかは分からないが、いずれ何らかの形で彼が日本に影響を与える活動を再開することは間違いないだろう。その時の彼の言葉をに期待したい。それまではどうぞゆっくり休んで、シャバの空気を味わって頂きたい。


2011年8月20日土曜日

来年の大河ドラマの話をしよう


まだ8月だが、来年の大河ドラマの話をしようと思う。今年のは、あまりに残念な内容になってしまっているのでもはや語るに及ばず。その反動というのでもないが、徐々に明らかにされているキャスト陣や、それらが演じる登場人物の、これまでの歴史観に挑戦状をたたきつけるような位置づけが、私のような時代物好きの気持ちをかき立てているのである。もちろん、実際に画が動いてみないと確かな評価もできないし、大胆な時代描写となっている分大ばくちの側面もあって、裏目に出るリスクも当然あるが。

来年の大河ドラマは「平清盛」。大河ドラマはちょうど半世紀を迎える(現行のは50作目だが2年で3作品やった時期があるのでズレがある)。勝者によって塗り替えられていくのが宿命である歴史においては敗者、悪役と祭り上げ挙げられがちなこの人物を、その時代のヒーローとして描いていくのが今回のドラマの趣旨だ。これだけでも挑戦的と言える。とはいえ、大河10作目「新平家物語」でも清盛は主役で登場しており、その意味では大胆さは薄い。

問題はまず、清盛の位置づけだ。一般に伝えられているところでは、清盛は武家にして始めて朝廷への昇殿が許された平忠盛の嫡男ということになっている。だが、院政の創始者であり時の最高権力者である白河法皇の落胤であったとの説が伝わってもいる。この異説には物理的に無理があるとの指摘が多く、現代ではほぼ否定されつつある。だが、今回のドラマではこれを正面から“あったこと”として扱うようだ。「新平家~」ではそれとなく匂わせるに留まっていたが、ある意味タブーと言うべき域に敢えて踏み入れようと言うことなのだろう。1000年近く前の法皇といえど、仮にも天皇家であり、触れると何かとやっかいな領域でもある。

脚本家の意向か演出の要望かは解らないが、これが制作側の挑戦的姿勢ということははっきり伝わってくる。この松山ケンイチ演じる清盛出生の秘密に大きく係わる人物を、かつてのアイドル・松田聖子を当てようというのもまたチャレンジだ。ここの設定がドラマとして成立するかが、ドラマ全体が成功するかのカギと言えるだろう。

もう一つ、期待を持たせてくれるのが、ドラマの語り部を、平家を討ち滅ぼした源頼朝にやらせるという設定だ。平家物語の琵琶法師ではなく、平家の仇そのものに語らせる。しかも、清盛が敢えてその命を救ったことが後の滅亡につながるという皮肉きわまりない人物にだ。

また、清盛とは同志であり後に敵ともなる後白河天皇(後に法皇となるが)を、巨人の星の星飛雄馬と花形満のような関係で描こうとしている点も、これまでになかったとらえ方だ。よくこんな面白い関係に着目したなと、脚本家・藤本有紀の視点には感心させられる。無論これも、画を見てからが本当の評価だが。

ほかにも、宮中の背後で隠然たる力を持つ女たちの泥仕合を檀れい、松雪素子が演じるというのも大いに期待。この設定が面白くならないわけがない。

すでに公式サイトで公開されているが、設定初段階でこれほど期待を駆り立てる大河も久しぶりだ。はたしてどんな画が展開されるのか、心配なのはそこだけだ。

2011年8月19日金曜日

テレビ画面を汚す放送局


このところ、テレビ画面の汚れが目立つ。掃除していないという意味ではない。デジタル化でハイビジョンとなったのに汚いのだ。画質のことではない。無駄な文字が画面を汚しているのである。

きのうは特にひどかった。日本在住の方なら誰もがご存じのように、昨日は無茶苦茶暑かった。関東では38℃に達する地域が続出し、節電下の電力消費量もあわや限界越えかというところまで上昇した。これらの情報が、いわゆるL字表示というやつで逐一画面に現れるのだ。さらに細かい地震の情報も重なって、画面表示に負い重なるのである。確かに、熱中症で命を失う人も少なくなく、電力の見える化も重要な情報であろう。地震についても言わずもがな。

だが、少しお節介が過ぎないかとも思うのである。テレビに言われなくても暑いのはいやと言うほどわかってる。そう思えばエアコンも付ける。それより今見ている番組に集中させてくれ、そう思うことが少なくない。ニュース速報も「何でこれが緊急?」というものも最近では少なくない。ネットの情報と競っているとでも言うのか。でもそれはテレビに悪印象を与えるだけで返ってマイナスではないかと思わないのだろうか。

せっかくデジタル化完全移行が成されたというのに、そのメリットを生かしていないようにも思う。もっとデータ放送を活用すればいいのではないか?NHKのデータ放送には、近隣で雨が降り出すとポップアップで知らせる機能というのがある。これは視聴者のリモコン操作でしまうことができる。この仕組みを使ってニュース速報を流し、見たくない人はキャンセルできるようにすればいいのである。これでせっかく録画しているドラマに余計な文字が混ざってしまうこともなくなる。

もっとも、この画面を汚すことを能動的にやっているケースが民放を中心に見受けられる。これこそがテレビ画面を加速させていると私は見ている。例えばアニメ番組で、画面の最下部にDVDなどの発売情報を流したり、次の時間帯の番組のお知らせなどを流すことがある。これには副産物の広告効果のほか、録画したコンテンツが違法に出回るのを防ぐ効果を狙っているのである。権利保護は確かに重要だが、そんな露骨な方法をとらなければならないとは思えない。むしろ局の印象を悪くするマイナス効果の方が強いと思える。だいたい放送中のコンテンツを汚すこんなやり方は、テレビのために作品を作っているクリエーターたちに対して失礼ではないかと思う。

テレビ離れへの危機感は放送関係者の誰もが意識していることだろう。その中で何をやるべきで何をやってはいけないのか、自局の放送画面を見つめながら今一度考え直して欲しいと思うのである。

2011年8月6日土曜日

タレントの時代、タレント不在の時代


芸能人には歌手、落語家、漫才師、最近ではグラビアアイドルなど様々な肩書きが存在するが、最もつかみ所がないのが“タレント”だ。最近は主に“お笑いタレント”を指す場合が多いが、その昔は“テレビタレント”“放送タレント”というカテゴリーがあった。いわゆるお笑い芸人ではないが、豊富な知識を背景に巧妙な喋り口で日常の笑いを引き出す、そんな知的さを漂わす“テレビの中の人”。それがタレントだった。Talent、直訳すれば「才能」。まさに才能あふれる知識人を呼ぶにふさわしい単語として誰かが発明したのだろう。

そんな放送タレントの先駆けが、昨日死去した前田武彦や、前東京都知事でもある故・青島幸男だった。黒柳徹子もその範疇だ。このあたりの名前を挙げれば、タレントとは何ぞやというイメージが何となくまとまってくるのではないか。イマドキの人で言うなら秋元康あたりも当てはまりそうだ。

テレビのバラエティ番組というと、最近では低俗かを嘆く声が多いが、テレビが熱かった1960~70年代のそれは、これら知的なタレントたちによって、笑いだけではなく細かな日常の知識をお茶の間の視聴者に振りまいていたのだった。先日インタビューした小松政夫さんは「コントだけじゃなく、歌があって、踊りがあってバラエティに富んでいるからバラエティ番組だったんですよ」と話していたが、これらのコンテツンを巧妙な喋りでつなぎ合わせる役を果たしていたのが司会業としてのタレントだったのだろう。マエタケさんもそうだが、そういう役割を放送作家が担っていたというのも、こうした番組構成を俯瞰すると至極もっともと言える。

いま、こうした番組の進行役はテレビ局所属のアナウンサーやしゃべくり系の芸人というケースがほとんどだ。一方で進行役のプロというような人が見当たらなくなってもいる。強いて挙げればみのもんたくらいか。アナウンサーの喋りには無論、目を見張る芸当を見出すこともあるが、放送上のガイドラインという枷もあって知識を広げる才能=タレントには欠けるものがある。お笑い出身の人もその点は微妙だ。家電芸人やらガンダム芸人などと称するまがい物タレントも最近ははびこっているが、オタクとタレントは似て非なるものである。

いま、ネットの発達によって知りたいことの答えが簡単に得られる時代になった。だからといって日本人全体がより知的になったのかというと、むしろ逆のように思えてならない。テレビ時代のタレントたちのように、知識面において国全体を引っ張るべき役目を担っているのは、αブロガーやソーシャルメディアを駆使したオピニオンリーダーということになるかも知れない。だが先駆者と比べてそれらの存在はまだまだ世間全般において薄い。今こそ、テレビ、ネットを超越したタレントの登場が待たれているのかも知れない。